2017/06/20
ケータイのデザイン革命! 『au Design project』誕生の知られざる構想
ほんの15年ほど前のこと。当時のケータイに求められたのは、「とにかくスペックアップ」していくことだった。たとえばディスプレイの解像度を上げる、カメラの画素数を増やす、どれくらい軽量化したか、といった数字がそのまま「差別化」につながり、またユーザーが新しいケータイを選ぶ際の重要な要素となっていた。
ケータイにまつわる文化も技術もまだまだ“成長期”だったから、スペックアップによって得られる便利さに日本中が大きな期待を寄せていた。デザインの良し悪しはいわば「おまけ」のようなもので、「気に入ればなお良し」。
2000年、auブランドが生まれたのはそんな時代。メールでのコミュニケーションやネット接続のニーズが高まり、auはcdmaOneと呼ばれる通信規格で勝負を仕掛けていた。各社が当時主流の折りたたみモデルのケータイを次々に発表し、しのぎを削っていた。
そこだけで戦っていても良かったのかもしれない。しかし世の中の端っこの方では「プロダクトデザイン」が徐々に話題が上がり始め、デザインという付加価値に対しての評価が高まっていた。また海外のドラマを見れば「なんだか見たこともないかっこいいケータイ」が使われている。では、日本のケータイはどうだ・・・・・・?
「こりゃいかん」という思いに駆られて立ち上がったプロジェクトがあった。「au Design project」(以下aDp)だ。トップダウンではなく、社員からのボトムアップという形でそれは実現し、やがて「auブランド」を象徴するシリーズに成長していく。
今年、誕生15周年を迎えるaDp。これを記念して、aDpが紡いできたデザインケータイの歴史や役割を当時の開発資料や未公開の試作品で振り返る、『ケータイの形態学 展』と、「au Design project 15周年特設WEBサイト」がスタートする。T&SではaDpの誕生、そして担当者が語る開発の秘話などを数回に渡ってお届けしたい。
世界的なデザインブーム到来! しかし、「ケータイ」にデザイン文脈はなかった
「90年代の後半から、ミッドセンチュリー時代のデザインが再評価され、世界的なデザインブームが起きていました。日本でもデザイン感度の高い“裏原系”の人を初めとして、『欲しいケータイがない』という声が多く聞こえてきました。しかし一方で、日本では女子高生ブームがあり、マーケティング的な正解は圧倒的に後者の時代だったんです」
そう振り返るのは、その立ち上げからaDpに携わっているKDDI商品企画本部の砂原哲。デザイン性を求めた国産のケータイは当時ほぼ皆無で、オシャレな人はノキアやモトローラといった、メールやネットが使いにくい(もしくは使えない)海外製のケータイを使っていた。
キャリア主導で、日本人のための国産デザインケータイをつくりたい!
「私はもともと衛星電話のイリジウム事業の出身でした。最初のマーケティング部は、イリジウムの残党とDDIの人たちの、寄せ集めの部隊だったんです」
当時、KDDIが掲げていた『Designing the Future』のスローガンにふさわしい活動として、なにをすべきかゼロから考えるところから始めた。デザイン家電が世に出始め、iMacのような“トガった”プロダクトが話題を集める背景から、「デザインケータイはきっと受ける!」と信じて、aDpは立ち上がった。電話事業会社主導のもと、日本人が求める機能を持ち、感性価値の高いファッション視点のアプローチで10年先の未来を見据えたケータイをつくろう・・・・・・という発想。
「まずどういったことがしたいのかを、ビジュアライズして世間とメーカーに示す必要があったんです。そこでプロダクトデザイナーの深澤直人さんがデザインした『info.bar』のモックアップを01年のビジネスショウ2001TOKYOに出展しました」
その結果、日本はおろか海外の著名なデザイン誌やカルチャー誌が、こぞって取り上げる事態になった。
深澤直人に佐藤可士和、マーク・ニューソン・・・・・・注目のクリエイターが次々と
企画を進めるにあたってのキーワードは「国道246」。青山から世田谷、神奈川のオシャレスポットを貫く高感度なイメージを裏テーマに据えた。こうしたアプローチの評判は上々で、02年にaDpは正式にスタートを切る。
「とはいえ、マーケティングの数字を見ても、顕在ニーズを示す数字がほとんどない。メーカーからも『ホントに売れるの?』という感じでした(笑)」
懐疑的になるメーカーを説得し、翌03年、第1弾となる「INFOBAR」は発売にこぎ着ける。
「表参道をジャックするという、通信会社としては目新しい広告戦略を打ち出し、ポスターなどの広告デザインは当時、大手広告代理店から独立したての佐藤可士和さんに手掛けていただいたんです。その結果、初日完売でした」
その直後にはaDp第2弾として、次世代を担うプロダクトデザイナーとして世界的な注目を集めていたマーク・ニューソン氏による「talby」を発表(04年発表/発売)。さらに、“触感”という概念を取り入れ、「第2の皮膚」を標榜した「MEDIA SKIN」(吉岡徳仁・05年発表/07年発売)や、インターフェースと筐体の融合を図った折りたたみタイプの「neon」(深澤直人・06年発表/発売)など、矢継ぎ早にデザインケータイを世に送り出していく。
開発のプロセスは、通常のケータイとは一線を画するユニークなものだった。たとえば「talby」の場合。
「当時、インテリアデザイナーとして日本でも有名だったマーク・ニューソンに白羽の矢を立てました。しかし連絡手段がないので、直接メールを送ったものの、返事がない。ちょうどインテリアの世界的な見本市であるミラノサローネの開催のタイミングだったので、アポなしで行けば会えるんじゃないかと(笑)。現地に到着したら、マークのビジネスパートナーからメールの返信があって、『いるんだったら会おう』ということになったんです。資料やケータイをカフェに持って行って、お願いすることができました。今だったらありえない方法ですよね」
aDpのケータイはすべてデザインが起点となる。
たとえばフューチャリスティックなこのストレートタイプのケータイは、樹脂製ながら塗装を徹底的にこだわることで、マークのデザインコンセプト通り「金属」のような質感を再現している。こうした産みの苦しみは枚挙にいとまがない。“マテリアルの魔術師”の異名を取る吉岡徳仁氏とコラボした「MEDIA SKIN」は、外装の仕様選定に難航を極めた。
「コンセプトは『第2の皮膚』。今でこそしっとりとした質感のソフトフィール塗料は一般的ですが、当時は出始めの頃で。樹脂のシボ加工とその塗料を合わせることで、ようやく実現できたんです」
「MEDIA SKIN」は、コンセプトの発表から発売に至るまで、実に2年の歳月を要することになる。ちなみにこれら初期を代表する「INFOBAR」「talby」「MEDIA SKIN」「neon」の4モデルは、ニューヨーク近代美術館(MoMA)の永久収蔵品として選ばれるという快挙を成し遂げている。
「ハイテク化するケータイ」に、「デザインがいい」という概念を世に問う形でスタートをした「au Design project」。それまで日の目を見ることの少なかったプロダクトデザイナーという存在をフィーチャーし、新機能の搭載がメインの選択肢だった時代に、一つの風穴を開けた出来事でもあったのだ。
文:吉州正行
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