2022/10/20

深海への挑戦 光海底ケーブルの歴史を探る

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日本における国際通信は1871年(明治4年)に開始され、2021年は150年目の節目となった。今では海外との電話やメールはもちろん、映像中継やインターネット、SNSのやり取りも気軽に行えるようになったが、その国際通信の99%は、海底を走る光ケーブルにより伝送されている。

光海底ケーブルの中継地「KDDI千倉海底線中継所」

その光海底ケーブルは、いつ頃から日本に普及したのか。海底ケーブルのはじまりは、1956年(昭和31年)に、アメリカのベル研究所が敷設した大西洋横断海底ケーブルだ。

その後、日本では1964年(昭和39年)にKDDIの前身であるKDDが、日本で初となる海底ケーブル『TPC-1(第1太平洋横断ケーブル)』を敷設する。これにより、初めて太平洋を横断した長距離の国際電話が可能になった。

この『TPC-1』は、当初電話換算で128回線で設計され、運用開始後142回線まで拡張。100人程度が同時に通話でき、更に電信回線が600回線以上設定できる規模感からサービスがスタート。その後、1975年(昭和50年)に『TPC-2(第2太平洋横断ケーブル)』が登場し、845回線になった。

第1太平洋横断ケーブル(TPC-1)ケーブル概念図

このように拡張を続けた国際通信だが、同時に課題もあった。
海底同軸ケーブルは太い銅線を使用しており、多くの資材を使用するため、敷設には大きなコストがかかるということだ。同時に、利用者が増え続ける国際間の通信量に対応するには、この銅線ケーブルでは限界があることがわかってきた。

その壁を突破したのが、光海底ケーブルだ。
当時、1970〜1980年代頃の国際通信は衛星通信が主流だったが、大容量の光海底ケーブルが登場したことで、この状況が一変する。

光海底ケーブルは、光ファイバという髪の毛程度の細さの透明な線を束ね、周囲を保護したケーブルのこと。ガラス製なので銅線の同軸ケーブルよりコストが安く、髪の毛ほどの細さのため、海底の耐高水圧という点で同軸ケーブルよりも強く、また、光ファイバは信号の減衰が少ないので中継器の数が少なくて良く、一度に大量の信号を送信できる。

第光ファイバケーブル

この光海底ケーブルの登場により、1989年(平成2年)には光ファイバを使用した『TPC-3(第3太平洋横断ケーブル)』が誕生。1992年(平成5年)には『TPC-4(第4太平洋横断ケーブル)』が登場し、『TPC-3』が7,560回線、『TPC-4』が15,120回線と容量が大幅にアップした。

ここからさらなる技術革新が起きる。
1995年(平成8年)、Microsoft Windows 95が発売され、インターネットが急激に一般家庭に普及しはじめたこの年に、『TPC-5CN(第5太平洋横断ケーブルネットワーク)』が登場。

水揚げされる『TPC-5CN(第5太平洋横断ケーブルネットワーク)』

『TPC-5CN』が画期的だったのは、中継器による光信号の増幅だ。光ファイバといえども、大陸から大陸までの数千kmを一気通貫でつなげるのは難しく、数十kmごとに、光信号を増幅させる中継器が設置されている。

光海底ケーブルの中継機

以前の中継器では、光信号を一度電気信号に変えて増幅し、再度光信号にして送り出す仕組みをとっていたが、『TPC-5CN』の中継器では、光信号をそのまま増幅させる技術が実用化され、光の波長の『多重化』が可能になった。

この『多重化』について詳しく説明すると、それまでは光ファイバの中には1種類の波長(色)しか送信できないと考えられていたが、新たに1本の光ファイバに対して複数の光の波長(色)を同時に送信できることがわかり、『TPC-5CN』以降の光海底ケーブルでは倍々ゲームで伝送容量が増やすことができた。

光海底ケーブルの容量の推移

この『多重化』により、1996年に行われたアトランタオリンピックでは、世界で初めて光海底ケーブルを使用したテレビ伝送が行われ、国際通信の主役が衛星通信から光海底ケーブルに逆転した。

そして現在、最新の光海底ケーブル『SJC2』では、1FP(ファイバーペア)あたり18Tbps(テラビットパーセコンド)のFPが7組あり、家庭用の光インターネットに比べ、およそ12万6000倍ものデータを送受信できるようになっている。

光海底ケーブルは普段目にする機会がないものだが、国際通信には欠かせない生活インフラだ。KDDI千倉海底線中継所では光海底ケーブルの安定した品質を保ち、通信を途切れさせないよう24時間365日体制で稼働し、通信を守り続ける。

※この記事は2022年1月11日の記事を再編集したものです。