2022/03/11

飛脚から電信や電話、インターネット、SNSへ 「伝える」方法はどう変わった?

海外との電話やメールはもちろん、インターネット、動画、SNSのやり取りも、今では気軽に行えるようになった。距離や国境さえ意識することなく通信は飛躍的に便利になったが、その裏には先人たちのたゆまぬ挑戦の歴史があった。

日本の国際通信は1871年(明治4年)に開始され、2021年は150年目の節目であった。そこでTIME&SPACEでは、国際通信の歴史や変遷を「①日本の国際通信のはじまり」「②長波から短波へ~電波が世界をつなぐ」「③宇宙への挑戦、衛星通信」「④大容量光海底ケーブル時代」として紹介してきた。今回はその番外編として、「伝える」方法がどう進化してきたかを紹介する。

古来、人は「太鼓」や「のろし」で伝えてきた

古来、人々はさまざまな方法で情報を伝達してきた。たとえば、太鼓の音による情報伝達や、アメリカインディアンは「のろし」という視覚手段を使って、敵が攻めてきたことや作戦開始の合図を伝えたという。古代ローマ帝国では水壺を使用した水位の違いやたいまつによって通信を行っていた。

のろしやたいまつを使った情報伝達

腕木でアルファベットを表現し、長距離通信

1793年、フランス人のクロード・シャップが可動式の腕木を使った通信方法を考案した。腕木の形はアルファベットを表現しており、バケツリレー方式で中継塔をリレーすることで長距離通信も可能だった。また、短い文書を送れるだけの通信能力があり、かのナポレオンがクーデターで、腕木通信網全線へメッセージを流したことでも知られている。

腕木の表す文字コードで情報を伝える「腕木通信」

江戸時代、「飛脚」が江戸~大阪間を駆け抜けた

江戸時代の日本では、五街道や宿場など交通基盤が整備され、郵便業・運送業のルーツとなった「飛脚」制度が発達した。「飛脚」は人馬がリレー形式で信書や小荷物を運ぶ輸送方法だ。江戸~大阪間は、普通に歩けば2週間ほどかかるが、「飛脚」は3、4日で走ったという驚きの一説もある。

飛脚の版画(郵政博物館収蔵) 「納る時をまつ尽くし。町飛脚」の版画。(郵政博物館収蔵)

日本で初めて電信線が架設。距離は約800m

1869年(明治2年)、横浜弁天の灯明台役所から横浜裁判所までの約800mに、日本で最初の電信線(電信の信号を伝達する導線)が架設された。同年、横浜裁判所と東京築地の運上所内に設けられた伝信機役所間に電信線が架設され、公衆電報の電信事業がスタートした。

電信局が描かれた浮世絵(郵政博物館収蔵) 伝信局が描かれた浮世絵。1869年。(郵政博物館収蔵)

郵便役所の誕生。日本で郵便がスタート

1871年(明治4年)には三府(東京・京都・大阪)に政府直轄の「郵便役所」が設置され、東海道の各宿駅には民間の協力で「郵便取扱所」が置かれた。郵便切手の発行も同年に開始され、日本で郵便がはじまったのだ。

郵便取扱の図(郵政博物館収蔵) 明治期の郵便局窓口の様子や郵便局内外での作業風景を描いた絵図「郵便取扱の図」(郵政博物館収蔵)
郵便物取り揃え区分の現況(郵政博物館収蔵) 横浜郵便電信局にて取り揃えた郵便物を区分する写真。1892年(郵政博物館収蔵)

下の画像は郵便創業時に使用された、郵便物を入れて運ぶための鞄「郵便行李(ゆうびんこうり)」。この中に宛先別の袋を入れて肩に担ぎ、局から局へとリレー式に郵便を運んでいた。

郵便行李(郵政博物館収蔵)

海底電信ケーブル建設。日本の国際通信の幕開け

1871年(明治4年)には、長崎~上海、長崎~ウラジオストク間をつなぐ海底電信ケーブルが、デンマークの大北電信会社により建設された。これら海底電信ケーブルと陸上の電信線をつなぐ施設が、長崎・小ヶ倉千本(現・長崎市)の海底線陸揚庫(りくあげこ)、通称「ケーブルハット」である。日本の国際通信は、ここからはじまった。

ケーブルハット
モールス符号

ちなみにモールス符号とは、「トン(短点)」をプラスの電流波形、「ツー(長点)」をマイナスの電流波形に変えて送信し、受信した信号を再び文字に置き換えて通信を行う手法。当時は窓口で電文を受け付けて、モールス符号に変換して海外へ電報を送っていた。

モールス符号の仕組み

また、1875年(明治8年)1月にはアメリカとの郵便交換条約が締結されたことによって、日本は外国郵便を直接宛地へ送ることができるようになる。こちらの錦絵は、1875年1月5日に横浜郵便局が完成し、落成式を兼ねて行われた外国郵便開業式の図だ。

横浜郵便局開業之図(郵政博物館収蔵)

電話が開通!東京―横浜間が5分で約2,000円!?

1890年(明治23年)には、日本初の電話サービスが東京〜横浜間で開始。当時の電話は、マイクにあたる送話器とスピーカーにあたる受話器が別々になっており、ダイヤルや押しボタンもなかった。この頃は個人で電話を持っている人は少なく、おもに役所や新聞社、銀行などが電話を使っていた。サービス開設当初の通話料は東京から横浜間で、5分で15銭(現代の価値に換算すると2,250円相当)。まだ電話は気軽な通信手段ではなかったのだ。

2号共電式壁掛電話機(NTT技術史料館にて撮影) 明治から昭和にかけて使用された2号共電式壁掛電話機(NTT技術史料館にて撮影)

ちなみに、黒電話の元祖が登場するのは1933年(昭和8年)だ。

黒電話とコードレス電話 黒電話の元祖「3号自動式卓上電話機」(NTT技術史料館にて撮影)

東京―マニラ間で国際電話サービスが開始

日本で電話が少しずつ普及するなか、1934年(昭和9年)には東京〜マニラ(フィリピン)間で、短波無線による日本初の国際電話サービスが開始。当時の通話料金は1分35円。当時は公務員の初任給が75円という時代で、個人としての利用はほとんどなく、利用者は報道関係や証券会社に限られていた。

国際電話の監視を行うマニラ局 国際電話の監視を行うマニラ局

オリンピックを短波ラジオで実況中継

短波無線による国際中継放送を強烈に印象づけたのは、1936年(昭和11年)に開催されたベルリンオリンピックの実況中継である。女子200m平泳ぎ決勝で前畑秀子さんが日本人初の金メダリストとなった歴史的瞬間は、「前畑がんばれ」のアナウンスとともに、海を越えて日本のお茶の間に伝わった。

昭和初期の「八俣送信所(現KDDI八俣送信所)」 海外への短波放送専用の送信所「八俣送信所(現KDDI八俣送信所)」(茨城県)。写真は昭和初期のもの

高度経済成長期に登場「テレックスサービス」

高度経済成長期初期の1956年(昭和31年)、電電公社が国内テレックスサービス(加入電信)を、KDDが国際テレックスサービスを開始した。ダイヤルで相手方を呼び出し、テレプリンター(印刷電子機)を用いて通信文を伝送する通信方式だ。電報の記録性と電話の即時性を備えたビジネス向きの通信手段であった。

テレックスサービス

「サクラサク」。電報は年間8,000万通以上に

1950〜60年代、電報は一般人にとって最も身近な通信手段であった。1960年代中頃まで、国内の電報通数は年間8,000万通超(ピークは1963年の9,461万通)で推移し、多くの人が電報を活用していた。当時は、慶弔電報よりも一般電報の利用がはるかに多く、費用をおさえるために短い文字数にした「サクラサク(合格の意味)」なども用いられたという。

電報受付窓口(郵政博物館収蔵) 電報受付窓口(郵政博物館収蔵)

人工衛星で宇宙からテレビ中継! 衝撃のニュースで幕開け

1963年(昭和38年)11月23日、茨城宇宙通信実験所(旧KDDI茨城衛星通信センター)でアメリカと日本を結んで初のテレビ衛星中継実験が行われた。放送内容はケネディ大統領から日本国民への録画メッセージを予定していたが、送られてきた映像はケネディ大統領の暗殺を伝える悲報であった。日本の衛星通信の歴史は、この衝撃的なニュースとともに幕を開けたのだ。

日米間初の人工衛星によるテレビ受信の公開実験

1969年(昭和44年)には、アポロ11号による人類初の月面着陸の歴史的な映像が通信衛星を利用して放送された。実は、アポロ11号の月面着陸の映像は、大西洋衛星が故障していたため、太平洋衛星からの映像をKDD茨城衛星通信所で受信し、KDD山口衛星通信所(現・KDDI山口衛星通信所)へ伝送後、そこからヨーロッパに向けて送信された。

1990年代のKDD山口衛星通信所 1990年代のKDD山口衛星通信所

ポケベル、FAX、コードレス電話。通信手段がより身近に

ポケベルやFAX(ファクシミリ)などの登場により伝達手段がより身近になった。電波で受信機に合図を送るポケットベル(ポケベル)が誕生したのは1968年(昭和43年)のこと。初期のポケベルは「音が鳴る」だけで、誰かが連絡を取りたがっていることがわかるシンプルな機能だった。

ポケベル

FAXの歴史は古く、1843年(天保14年)にイギリスで発明された。日本では1928年(昭和3年)に製造されたが、当初、日本では電話網でFAXを使用することが規制されていたため、一般の人が使う機会は少なかった。1970〜80年代にFAXの普及が進んだのは、FAX画像データ伝送の世界標準化と、1972年(昭和47年)の法改正により電話網が開放されたためだ。1984年(昭和59年)には全国の設置台数が70万台を突破した。

FAX

同時期の1980年代中頃には、電話のコードレス化や小型化が進んだ。

コードレス電話

日本で初の携帯電話「ショルダーホン」が誕生

1979年(昭和54年)、携帯電話の前身ともいえる「自動車電話」サービスが開始される。1985年(昭和60年)には、初の一般向け携帯電話「ショルダーホン」のレンタルが開始された。こちらは普段は車に搭載し、必要なときだけ肩掛けベルトのついた通信端末を持ち歩くスタイルだった。

ショルダーフォン IDO(当時)が1988年に提供を開始した「ショルダーフォン」

また、1984年には自動車電話からの国際電話サービスが開始。1988年には携帯電話による国際電話サービスがスタートした。

クレジットカードが使える国際電話専用の公衆電話が登場

1980年代後半には、国際電話専用のクレジットカード「KDDハローカード」や、クレジット会社が発行するカードを使って国際電話を利用できるサービスがはじまる。

ハローカードで国際電話をかける(1987年、東京営業所) 専用の公衆電話でハローカードを使って国際電話を行う(1987年、東京営業所)

当初、利用できる電話機は成田空港やKDDの営業所などに設置された国際公衆電話に限られていた。写真はクレジットカードを読み取ることのできる国際電話専用の公衆電話機「KDDクレジットホン」だ。

国際通話専用の公衆電話機「KDDクレジットホン」

1995年、光海底ケーブルでインターネットや映像伝送が身近に

1989年(平成1年)には、太平洋域初の光ファイバを使用した「TPC-3(第3太平洋横断ケーブル)」が開通。1995年(平成8年)には、光海底ケーブルに技術革新が起こる。それが「TPC-5CN(第5太平洋横断ケーブルネットワーク)」に使われた「光増幅技術」だ。その後の「光波長多重技術」とともに大容量化が急速に進んだ。

1994年、光海底ケーブルの陸揚げ 1994年に行われた光海底ケーブル(TPC-5CN)の陸揚げの様子

以降、国際電話やインターネットはもちろん、海外でのスポーツやニュース映像の中継など、光海底ケーブルは、日本と世界を結ぶ情報の大動脈としての役割を果たすことになる。写真は南アフリカで行われた国際スポーツイベントでの現地特設スタジオ。KDDIは世界的なスポーツイベントで、多くの映像を日本へ伝送してきた。

南アフリカで行われた国際スポーツイベントでの現地特設スタジオ

2007年、初代iPhoneが登場。SNSがより身近な存在に

2007年には、Appleが初代iPhoneをアメリカで発売。翌年、日本でも発売が開始され、スマートフォンの普及が急速に進む。ちなみに、日本で初めてAndroid搭載スマホが発売されたのは2009年。パソコンに近い機能を備えたスマホの登場によって、SNSなどコミュニケーションのあり方にも大きな変化をもたらした。

auの「世界データ定額」 海外でも国内同様にスマホが利用できるauの「世界データ定額」

オンラインのビデオ通話から仮想現実のメタバースの時代へ!?

2020年以降、新型コロナ禍の影響により、デジタルの活用が進み、新たな生活様式が定着してきた。対面で伝えるのではなく、オンラインでのビデオ通話によるコミュニケーションが積極的に取り入れられるようになった。

その新しい手法として、インターネット上に構築された仮想空間内で、自分の分身となるアバターを用いて交流を行う「メタバース」が注目されている。

ちなみに、KDDIは渋谷の街を仮想空間で表現した「バーチャル渋谷」を2020年にオープン。2021年のハロウィーン期間には、自宅などから、渋谷のハロウィーンイベントやライブなどに参加できる「バーチャル渋谷 au 5G ハロウィーンフェス2021」を開催。仮想空間の中で体験できる世界が広がっている。

「バーチャル渋谷 au 5G ハロウィーンフェス2021」 「バーチャル渋谷 au 5G ハロウィーンフェス2021」

古来、人は距離や空間の制約を超え、さまざまな手段で情報を「伝えよう」としてきた。太鼓やのろし、飛脚の時代から、電気通信の登場により情報技術は飛躍的に進歩した。

これからも、5G、IoT、AIをはじめとするテクノロジーの発展に伴い、ライフスタイルや価値観、ビジネスのあり方をも一変させる新しい通信体験が生まれてくるだろう。KDDIは、そのようなワクワクする時代の豊かなコミュニケーション社会の発展に貢献していく。

文:TIME&SPACE編集部

※掲載されたKDDIの商品・サービスに関する情報は、掲載日現在のものです。商品・サービスの料金、サービスの内容・仕様などの情報は予告なしに変更されることがありますので、あらかじめご了承ください。