2021/09/29

【国際通信150年(2)】長波から短波へ 日本で唯一の海外向け短波放送を送信 KDDI八俣送信所

海外との電話やメールはもちろん、インターネット、SNSのやり取りも、今では気軽に行えるようになった。国際通信は飛躍的に便利になったが、その裏には先人たちの挑戦の歴史があった。その軌跡が東京・多摩市にある「KDDI MUSEUM(KDDIミュージアム)」に残されている。

「KDDI MUSEUM」は、約150年にわたる日本の国際通信の歴史を実物の機器や資料で解説するほか、歴代のau携帯電話とスマートフォンを一堂に展示、最新の5G&IoT技術も体験できる施設である。

「KDDI MUSEUM(KDDIミュージアム)」

日本における国際通信は1871年(明治4年)に開始され、2021年はその150年目の節目となる。そこで、国際通信の歴史や変遷を、「①日本の国際通信のはじまり」「②長波から短波へ~電波が世界をつなぐ」「③宇宙への挑戦、衛星通信」「④大容量光海底ケーブル時代」の4回の連載に分けて、「KDDI MUSEUM」の展示とともに紹介する。

国際通信は海底電信ケーブルから無線通信の時代へ

今回のテーマは、「②長波から短波へ~電波が世界をつなぐ」。20世紀初頭にはじまる長波・短波による無線通信が、国際通信の主流となっていった歴史や、現在、日本で唯一の海外向け短波放送を送信する「KDDI八俣送信所」の役割などを伝える。

「KDDI八俣送信所」

日本で国際通信がはじまったのは1871年(明治4年)。デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph. Co.)が長崎~上海、長崎~ウラジオストク(ロシア)間をつなぐ長距離海底電信ケーブルを敷設したことからスタートした。その後、時代は明治から大正、昭和へと変わるなかで、国際通信は海底電信ケーブルから、長波・短波を利用した無線通信の時代へと移っていく。

長崎~上海、長崎~ウラジオストク間をつなぐ海底電信ケーブル

そもそも「無線通信」とは、電流を流すための導線などを使用せず、主に「電波」を用いた通信方法のこと。1888年(明治21年)にドイツの物理学者・ヘルツが電波の存在とそれが空間を伝わることを証明し、1895年(明治28年)にはイタリアの電気技術者・マルコーニが、2.4kmの距離を隔てた無線電信の実験に成功した。マルコーニが無線電信機を発明したことで、国際通信の状況は一変する。

マルコーニの装置で海上無線伝送の試験をするイギリス郵政省の職員(1897年)『腕木通信から宇宙通信まで』 マルコーニの装置で海上無線伝送の試験をするイギリス郵政省の職員(1897年)
『腕木通信から宇宙通信まで』

無線電信は海底電信ケーブルに比べると建設コストが安価で、他国にケーブルを陸揚げする必要がなく、またケーブルが途中で切断される心配もなかった。

欧米各国と同様に、日本でも無線を使った通信への移行は進んでいく。その背景には、当時の日本の国際通信は海底電信ケーブルを敷設したデンマークの会社をはじめ他国に依存しており、欧米との通信はすべてイギリス経由の電信ケーブルを通さねばならず、また、国際電報料金に占める支払額も高額であった。そのため、日本が自主的に運用できる無線通信へと切り替えていくのは必然であった。

日本では、イギリス艦隊の無線技術を参考にして研究開発を行い、1903年(明治36年)に通達距離200海里(約370km)の「三六式無線電信機」を完成する。初期の無線電信は船舶と陸上間、もしくは船舶と船舶間の通信手段として利用された。

日露戦争末期の1905年(明治37年)、日本海海戦において、ロシアのバルチック艦隊を発見した「信濃丸」は、三六式無線電信機から「敵ノ艦隊見ユ二〇三地点」の第一報を発信して、日本を勝利に導き、無線通信の効力と必要性を示したのだ。

復元された三六式無線送信機(記念艦「三笠」蔵、公益財団法人 三笠保存会。画像提供:郵政博物館収蔵) 復元された三六式無線送信機(記念艦「三笠」蔵、公益財団法人 三笠保存会。画像提供:郵政博物館収蔵)

地表に沿って遠く海外へ。大電力で電波を送る長波通信

波長の長い電波が遠方まで伝わることがわかってくると、世界各国は大陸間の遠距離通信に長波通信を使うようになる。「長波」とは、30〜300kHz(キロヘルツ)の周波数帯の電波のことで、地表面に沿って遠くまで届く特性をもつ。

巨大アンテナから長波を飛ばす 巨大アンテナから長波を飛ばす

長波を発生させるためには大きな電力と、巨大なアンテナを備えた通信所が必要だった。また、長波の通信に適した電波の数は世界で134と限りがあり、未使用の電波をめぐっては、先に国際無線局を建設した国が使用権を得る“早い者勝ち”の状態となっていた。

電波獲得競争のなかで、日本も早急に国際無線局を建設する必要があったが、当時の国家財政ではその巨額な建設資金をまかなうことは困難であった。そこで日本政府は1925年(大正14年)に、民間から資金を募って「日本無線電信株式会社」を設立。同社が国際無線局の建設と保守を行い、それを日本政府が運用することとした。

長波に用いた巨大碍子(がいし) 写真右上にあるのが長波通信に用いた巨大碍子(がいし)。電線と支持物の間を絶縁するために用いる器具だ

電離層に電波を反射させる短波の時代へ

1920年代後半、世界各国による長波に適した電波の争奪競争が激しくなるなかで登場したのが、「短波」による通信方式だ。

電離層や地表に反射させて短波を飛ばす 電離層や地表に反射させて短波を飛ばす

周波数帯の3~30MHz(メガヘルツ)の電波を利用する短波通信は、当初は長距離通信には向かないと考えられていたが、電離層や地層に反射させることで、わずか数ワットで遠く離れた海外にまで送れることが明らかになり、国際通信の主要な手段は長波から短波へと急速に移行する。日本では1931年(昭和6年)に対米、対南洋・極東用の短波通信施設として、小山送信所(栃木県)が建設された。

小山送信所(左は1930年頃、右は第二次世界大戦の後) 小山送信所(左は1930年頃、右は第二次世界大戦の後)

1934年、日本で国際電話がはじまる

無線通信が発展するにつれて、無線電話の実用化が世界各国で研究されるようになり、1927年(昭和2年)にはイギリス〜アメリカ間で国際無線電話が開始。主要な地域に無線電話設備が広がっていった。

欧米各国がアジア方面への無線電話の開設を行っていくなか、1932年(昭和7年)、日本政府の主導により「国際電話株式会社」が発足。1934年(昭和9年)には同社が建設した名崎送信所(茨城県)、小室受信所(埼玉県)とマニラ(フィリピン)との間で、短波無線による日本初の国際電話サービスが開始された。

日中戦争が起こった1937年(昭和12年)には、ヨーロッパ諸国へはロンドンやベルリン中継で、南米へはブエノスアイレス中継で、南アフリカ連邦へはベルリン中継でと、世界の主要な地域との通話が可能になったのだ。

国際電話サービスを行うマニラ局 ボーダス装置で国際電話の監視を行うマニラ局

また、無線通信は、当時の海底電信ケーブルでは困難だった音声や画像の送受信も可能に。1936年(昭和11年)のベルリン・オリンピックでは「前畑がんばれ」のアナウンスとともに、海を越えたラジオ実況中継が、国際電話回線を通して実現した。

1938年(昭和13年)、日本無線電信株式会社と国際電話株式会社は合併し、国際電気通信株式会社が発足。当時は、海外放送の電波の強さは国力に比例するとも言われた時代で、同社は1940年(昭和15年)、海外放送専用の送信所として「八俣送信所(現KDDI八俣送信所)」(茨城県)を設立した。現在でも日本で唯一の海外向け短波放送の送信所として業務を行っている。

昭和初期の八俣送信所(現KDDI 八俣送信所) 昭和初期の八俣送信所(現KDDI 八俣送信所)

戦後の国際通信、KDD設立

20世紀前半は、戦争の嵐が全世界へと広がっていた時代であった。短波による無線通信は、海底電信ケーブルのように対戦国に切断される恐れがなく、移動する部隊や船舶にとってはなくてはならない通信手段となる。各国はラジオ放送と新聞無線情報(新聞に掲載される目的で発信される無線電報)を使って、音声と文字の両方で自国民に直接、戦況を伝えて戦意高揚を図った。

1945年(昭和20年)8月15日、太平洋戦争の終結を伝える玉音放送(天皇陛下肉声の放送)が、神奈川県の足柄送信所から世界に向けて発信された。短波にのせられた玉音放送は、中国大陸や南方諸地域の軍人や在留邦人、南米などの日本人移民に終戦を伝える役割を果たしたのだ。

終戦直後の国際通信は、一部の中立国との電信連絡回線を残したのみで、ほとんどの回線が途絶えていた。日本では国際通信サービスを欧米先進国の水準に引き上げることが急務とされ、政府機関などが運営してきた国際通信サービスを運営する民営会社として、1953年(昭和28年)、KDDIの前身となる「国際電信電話株式会社(KDD)」が設立された。この年は、日本放送協会や民間テレビ局がテレビ放送を開始するなど、通信や放送が生活のなかへ浸透しはじめた時期でもあった。

国際電信電話株式会社創立当時の事務所の看板 東京・狸穴の郵政省内に設けられた国際電信電話株式会社設立事務所の看板

経済成長と国際通信の需要拡大

発足当時のKDDは対北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アジアを中心とした電信29回線、電話18回線、写真電報3回線など58回線でスタートした。日本経済の成長とともに通信需要が拡大するなかで、通信回線の拡張を進め、限られた資産である周波数を極限まで活用することにつとめた。

その結果、発足からわずか10年の1963年(昭和38年)度末には、短波回線の数は292回線に達し、最盛期には会社発足当時に比べて電信回線は約7倍、電話回線は約3倍に増加する。

東京国際電話局交換室のオペレータ(日本電信電話公社東京市外電話局内) 東京国際電話局交換室のオペレータ(日本電信電話公社東京市外電話局内)
1957年に製造された短波国際電話回線の有紐交換台 1957年に製造された国際電話の有紐交換台

1950年、ヨーロッパ〜アメリカ間ではタイプライターと電信を組み合わせた国際テレックスサービスが開始。テレックス端末にタイプした内容が、相手側のテレックス端末のプリンタで印字される、FAXの前身のようなものだ。

テレックス端末 テレックス端末

KDDは1956年(昭和31年)に短波を使用した国際テレックスサービスを日米間で開始。国際テレックスは利用者同士でダイレクトにやり取りができる双方向型のサービスとして、高度成長期には商社や銀行などが多く利用。取り扱い数は1961年(昭和36年)度に約54万にのぼり、国際通信の主要サービスに成長していく。

その後、短波が中心であった日本の国際通信の主役は、1960年代以降、衛星通信や光海底ケーブルへと移っていったのである。

日本初の国際電話は3分100円!当時の1カ月分の給料

短波や国際電話に関する素朴な疑問について、国際通信の研究者である大野哲弥さんにKDDI MUSEUMで話を伺った。

国際通信の研究者の大野哲弥さん 国際通信の研究者の大野哲弥さん

――1934年(昭和9年)に日本で初めて国際電話が開通しました。当時の価格や利用形態はどのようなものだったのでしょうか?

「国際電話の通話料は3分間で100円。当時の100円は、世帯あたりの平均収入のほぼ1カ月分に相当します。国際電話は高額なため、個人としての利用はほとんどなく、利用者は報道関係や証券会社などに限られていました。企業も国際電話を日常的に活用することは少なく、『急ぎの用件だから今日中に連絡がほしい』など、電報の補助などに使用していたようです。

国際電話の取り扱い時間は午前7時から午後4時までの1日9時間。国際電話交換手が備え付けの課金計で実際の会話の時間を計り、あとから手作業で集計して、料金を算定していました。国際電話の利用はごく少数にとどまっていたようですが、短波を使うことで初めて国際電話の原型ができたのです」

――当時、短波を使ってどのような通信が行われていたのでしょうか?

「短波通信の場合は、国際電話よりもラジオ放送での利用が盛んになっていきます。具体的には、NHKの海外ラジオ放送を使ったメッセージです。当時は『海外放送』と『国際放送』という2種類の短波放送がありました。『海外放送』は海外在住の日本人をねぎらったり、外国人に向けて日本の宣伝をしたり、文化を紹介したりするもので、日本の放送局から直接外国に放送します。

もうひとつの『国際放送』は、両国の放送局が協力して行う中継放送でした。オリンピックやコンサートの中継は『国際放送』なので、国際電報や国際電話と同様に、両国の協力がないと実現しません。その点、『海外放送』の場合は直接、相手国の受信者(ラジオ)に送ることができるため、たとえ国交が途絶えても送信できるメリットがあります。

国際通信の研究者の大野哲弥さん

NHKによる『海外放送』は1935年(昭和10年)に茨城県の名崎送信所から、海外へ向けて国内放送番組の中継放送を開始しました。特に海外にいた日本人に喜ばれ、各国で反響を呼んだそうです。そして、1940年(昭和15年)に海外放送専用の短波送信所として『八俣送信所(現・KDDI八俣送信所)』が設立され、現在も海外向け短波放送を世界に送り続けています」

日本で唯一の海外向け短波放送を担う「KDDI八俣送信所」

1940年(昭和15年)に開設された八俣送信所は、現在は「KDDI八俣送信所」の名称で、日本で唯一の海外向け短波放送を送信している。

KDDI八俣送信所

茨城県古河市にある約100万平方メートル(東京ドーム22個分)の広大な敷地内には、紅白の鉄塔が数十本建ち並び、日本の裏側のブラジルをはじめ、南極の昭和基地まで、世界各地に短波によるラジオ国際放送(NHKワールド・ラジオ日本)を送信している。開設から80年以上が経ったいまも、短波放送を世界各地へ送り続ける意義について、「KDDI八俣送信所」の堀江 孝マネージャーに話を聞いた。

KDDI技術統括本部 八俣送信所マネージャー 堀江 孝 KDDI技術統括本部 八俣送信所マネージャー 堀江 孝

――これまでKDDI八俣送信所はどのような放送を海外に届けてきたのでしょうか?

「1940年に開設された『八俣送信所』は、戦時中も大きな被害を受けることなく、海外に向けて短波放送を送信してきました。2008年(平成20年)頃までは高校野球や紅白歌合戦、平和記念式典などを世界に向けて時間を延長して送信することもあり、ブラジルなど日系人が多い国などでは、非常に好評だったそうです。

昭和初期の八俣送信所の写真 左は戦時中の職場を守った女性技術員、右は昭和初期の八俣送信所。1944年(昭和19年)

短波放送は衛星放送やインターネットと異なり、通信衛星や海底ケーブルなどの大がかりな設備が不要です。聴取者は受信できる短波ラジオさえあれば、誰でも海外で情報を受信できるという大きなメリットがあります。電話やインターネットが世界中に普及していますが、大規模な自然災害や政情不安などの有事の際には、通信が途絶する可能性があり、そうした場合でも短波で情報を発信することで、世界中に正しい情報を伝えることができます」

――有事に短波放送が役立ったエピソードはありますか?

「1990年(平成2年)の湾岸戦争では現地の通信が遮断されてしまったため、残留邦人は正確な情報を得ることができませんでした。そこで、残留邦人に向けて有事放送を送信しました。現地にいる人にとって、日本から届く唯一の情報源が短波放送だったのです。

2001年(平成13年)には、米同時多発テロの発生に伴い、中東や中央アジア向けの情報発信を強化すべく有事放送を送信しました。

また、2014年(平成26年)にタイで軍事クーデターが発生したときには、タイ国内でテレビ放送が遮断されたため、現地で状況がわかるよう、タイへ向けて『NHKワールド・ラジオ日本』の24時間臨時送信を行いました。

有事の際の短波放送のイメージ 中継施設などの必要がない短波放送は有事の際も情報を送ることがきる

大規模災害があっても、内乱や戦争があっても、八俣送信所が存在する限りは短波放送で情報を発信できるのです。だからこそ、外務省は海外渡航者に短波ラジオを携帯するよう、アナウンスを行っているのです」

――一方で、世界的に見ても短波は縮小傾向にありますね。

KDDI技術統括本部 八俣送信所マネージャー 堀江 孝

「国際通信を行うなら大容量の光海底ケーブルや通信衛星を使えばよいので、経済性から見ると短波はたいへん非効率です。しかし、もし短波放送がなくなると、非常時に日本から海外に情報発信ができなくなる可能性があります。私たちは短波放送の送信を、“国家的利益”と考えています。普段の生活では聴くことは少ない短波放送ですが、日本の危機管理という面では大きな役割を担っているんですよ」

「KDDI八俣送信所」

設立から80年以上が経つ「KDDI八俣送信所」は、今日も休むことなく日本の情報を世界に向けて送信し続けている。無線通信は、20世紀初頭から、国際間の通信において重要な役割を果たしてきた。そして1960年代以降、国際通信の主役は衛星通信や光海底ケーブルへと、劇的な進化の時代を迎えるのだ。

大野哲弥さん

1956年、東京生まれ。立教大学経済学部卒業、放送大学大学院文化科学研究科修士課程修了。博士(コミュニケーション学/東京経済大学)。1980年、国際電信電話株式会社(KDD)入社。退職後、放送大学非常勤講師などを歴任。著書に『通信の世紀 情報技術と国家戦略の一五〇年史』(新潮社)、『国際通信史でみる明治日本』(成文社)。

文:TIME&SPACE編集部

ドローン撮影:佐野 修次(八俣送信所マネージャー)

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