2014/11/12

2014年、もう一つの「50周年」 ~第一太平洋横断海底ケーブル『TPC-1』開通を振り返る

2014年は「東京五輪50周年」「東海道新幹線開通50周年」として、テレビや新聞では50年前を振り返る特集が目白押しだ。坂本九の「明日があるさ」や美空ひばりの「柔」がヒットし、テレビでは「ひょっこりひょうたん島」が放送開始。カルビーの「かっぱえびせん」やロッテの「ガーナチョコレート」が発売され、プロ野球日本シリーズでは南海ホークスが阪神タイガースを下して日本一になった。また、日本人の海外渡航が自由化されたこの年は、国際通信の世界でも、画期的な出来事があった。太平洋を横断する初の海底同軸ケーブル「TPC-1」が6月に開通したのである。

その第一太平洋横断海底ケーブル「TPC-1」が、2014年11月12日、「電気、電子、情報の分野で、技術的に優れていると同時に社会に貢献した顕著な業績である」と認められ、IEEE Milestoneに認定された。IEEEとは、アメリカ合衆国に本部を持つ電気工学・電子工学技術の学会だ。会員は世界各国におり、電気、電子、情報通信分野での論文誌の発行、学術会議の開催、標準規格制定などの活動を行っている。例えば、IEEE 802.11(無線LANの国際標準規格)は、IEEEが制定した標準規格の中でも最も身近なものの一つであろう。KDDIがIEEE Milestoneに認定された業績としては3件目となり、IEEE Milestoneに選定された電話海底ケーブルとしては「大西洋横断ケーブル TAT-1」(1956年)に次ぎ、TPC-1は2つ目となる。

電波を増幅して送り返す機能を備えた初の通信衛星「テルスター1号」

1955年から始まった高度経済成長期には、日本のGDPは年平均10%以上の成長を遂げ、家庭においても、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器ともてはやされていた。1964年時点での普及率は、冷蔵庫が約4割、洗濯機が約6割、白黒テレビは約9割に達していた。一方で、住宅用固定電話の普及率はまだ1割にも達していなかった。ダイヤルを回すタイプの黒電話だ。緊急の場合には、ご近所に電話をかけさせてもらいにいくことも珍しくなかった。もちろん、携帯電話サービスはまだ日本には存在していない。

当時の日本は、東京オリンピックに向けた都市インフラ整備が急速に進められていた。飛行機で来日する選手や関係者を受け入れるために始まった羽田空港拡張工事はこの年完了し、東京モノレールも開通した。東海道新幹線の「ひかり」は東京-新大阪間を3時間10分(開業から1年間は4時間)で結び、夢の超特急としてもてはやされた。ちなみに新幹線開業以前、最も速く東京・大阪間を結んでいたのは東海道本線の特急「こだま」「つばめ」の6時間30分。一方、現在の「のぞみ」の東京-新大阪間所要時間は最速で2時間25分と、さらに短縮された。

電話が可能な太平洋横断海底ケーブル第1号となるTPC-1のルート

1964年6月19日、TPC-1による初の日米通話は、池田首相と米国のジョンソン大統領の間で行われた

この時代の国際通信に目を向けると、1960年代初めまでの主役は短波無線だった。国内数カ所に設けられた大規模な無線送信所・受信所が外国との通信を一手に担っていた。しかし、短波無線は、電離層の反射によって伝達されるため通信品質が不安定だったり、利用できる周波数に限りがあるため、国際通信の需要が増えるにつれて帯域がひっ迫したりといった問題を抱えていた。この課題を解決するべく、英米間を有線でつなぐ大西洋横断海底ケーブルTAT-1の建設(1956年)を契機とした欧米間の海底ケーブル建設ラッシュやアメリカによる通信衛星Telster1号(1962年)打ち上げなどにより、国際通信の主役は短波から衛星と海底ケーブルに移り始める。

KDDIの前身の1社であるKDDは、1963年に茨城宇宙通信実験所を茨城県多賀郡十王町(現:日立市十王町)に開所し、アメリカとの間で初の衛星テレビ中継実験を実施した。予定ではケネディ大統領のメッセージが届けられるはずだったが、伝えられたのは大統領暗殺の臨時ニュースで、日本中に衝撃が走った。

光海底ケーブルシステムの概念図。
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米AT&Tのロングラインズ号からTPC-1を陸揚げ(神奈川県二宮町)

さらにKDD、アメリカのAT&Tとハワイ電話会社の3社は、太平洋横断海底ケーブル第1号となるTPC-1を建設し、1964年に開通させた。電話128回線の容量を持ち、日本からグアムとハワイを経由して米国西海岸までを結ぶ。開通式は6月19日に行われ、最初の通話となった米国のリンドン・ジョンソン大統領と日本の池田首相の電話会談は、当時の新聞の一面を飾った。「まるで国内電話」(朝日新聞夕刊)、「これまでの国際電話のように「ザー」という波に似た雑音一つない」(読売新聞夕刊)といった記事は、TPC-1が国際電話のクオリティを大きく向上させたことを物語っている。

TPC-1では、当初は米国製のケーブルを使用する予定だったが、この機会に技術導入を図りたいという日本側の熱意と努力が実り、国産ケーブル製造のため、大洋海底電線株式会社が設立された。同社は後に日本海底電線と合併し、現在は世界有数の海底ケーブルメーカーであるOCCとなっている。また、TPC-1の建設には米国のケーブル敷設船ロングラインズ号が使用されたが、TPC-1敷設の経験を生かして、KDDは1967年にケーブル敷設船KDD丸を建造。大陸間海底ケーブルを建設・運用するためのノウハウを蓄積した。

これを境に、国際通信は短波の時代から広帯域、すなわち海底ケーブルと衛星の時代へと変わることになる。オリンピック中継を例にとれば、1960年のローマ大会では、音声や写真・文字原稿転送は短波で、そして映像は現地から航空便でフイルムを送るかたちで行われていたのに対して、1964年の東京オリンピックでは、TPC-1が活躍したのに加え、通信衛星(シンコム3号)による映像の衛星中継まで行われた。

その後、国際通信需要の急速な増大に対応するため、海底ケーブルは技術革新が進められ、1989年には光ファイバー通信を利用した初の太平洋横断光海底ケーブルTPC-3が建設された。以後、大容量伝送の主役は光海底ケーブルとなり、現在では国際間の通信トラフィックの99%を担うに至っている。2016年運用開始を目指して建設が始まる最新の日米間光海底ケーブル「FASTER」の回線容量は、TPC-1の実に約560万倍にも達する。

現在の日米間通信の主力となっている海底光ケーブル「UNITY」、日本と東南アジアを結んでいる「SJC」、2016年運用開始の次世代日米間海底光ケーブル「FASTER」のルート図

TPC-1が開通した1964年は、IBMが世界初の汎用機シリーズSystem/360を発表した年でもあった。日本では、早川電機(後のシャープ)が、世界で初めて電卓「CS-10A」を発売している。この年は、まさに世界の情報化元年ともいえる年でもあるのだ。

それではもし海底ケーブルがなかったら、世界はどう変わっていただろうか。国際通信のもう一つの主役である衛星通信は、電波を利用するため、短波同様、その容量には限りがある。衛星通信のみでは、国境を越えた通信を現在のように手軽に利用できるようになっていなかったことは容易に想像できるだろう。メール1通送るのにも国外向けでは割高な料金がかかり、気軽に国外のウェブサイトを見たり、ましてやYouTubeのような海外の動画サービスを利用することなどできなかったに違いない。世界各地にあるサーバーを利用するようなグローバルなクラウドサービスも成立しない。あるいは、インターネット自体、太平洋や大西洋が壁となって、大陸ごとに独自の発展を遂げ、利用できるコンテンツやサービスも異なっていた可能性もある。私たちの生活やビジネスも、今とはずいぶん違ったものになっていたかもしれない。日本の国際化と情報化が始まるタイミングで生まれたTPC-1は、日本がグローバルな情報通信社会に参加する、そのはじまりの役割を担ったのである。

文:板垣朝子

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