2015/05/26
プロテニスの大会でお馴染み 審判の世界を変えたホークアイ技術の舞台裏
ゲームのルールを一変させた電子の目
ひとつのコートにつき10個設置されているハイスピードカメラ。これがホークアイ技術の要だ
錦織 圭選手の大活躍により、さらに多くのファンが注目するようになったプロテニスの国際大会。ウィンブルドンなどの四大大会をはじめ、主な大会では、センターコートなどの主要コートに「ホークアイ(Hawk-Eye)」と呼ばれる電子審判テクノロジーが使われている。
その名のとおり、空中からコートを鋭く見下ろす「鷹の目」のイメージで、コート脇に設置された複数のハイスピードカメラが、ボールの位置をリアルタイムで追いかける。そのデータが3Dイメージの映像に変換され、きわどいボールがインかアウトかをリアルタイムで見ることができるという仕組みだ。試合中に、主審が下した判定に不服な場合、選手は1セット3回まで判定に「チャレンジ」することができ、その際に使われるのが、ホークアイの技術だ。
ミリ単位のインかアウトの差で勝敗が決まるテニスの試合に、新たなスパイスと興奮を加えたホークアイ。その舞台裏を、米国オハイオ州のシンシナチで開かれた、シンシナチ・オープンで現地取材した。
ハイスピードカメラがボールの軌跡を捉える
シンシナチ大会でホークアイのコントロームルームの中枢を仕切るエンジニアのダニエル・キャッシュ氏
ロジャー・フェデラーやノバク・ジョコビッチ、そしてセリーナ・ウィリアムズなど、世界の頂点に立つプロテニス選手がこぞって出場した、昨年夏のシンシナチ・オープン。その試合会場の一角に、ホークアイのコントロールルームがある。センターコートと、その隣のグランドスタンドコートの間にある部屋で全体のオペレーションを見守るのが、ホークアイイノベーションズ社のエンジニア、ダニエル・キャッシュ氏だ。部屋には2つのコートにある、合計20個のカメラから直接つながれた太いケーブルがあふれ、コンピュータの画面にボールや選手の動きが映し出されている。
コントロール室とは別に、センターコートの観客席の上方にある小さなオペレーション室。ここには大会の審判員とホークアイチームメンバーが常時詰めている。窓の外に見えるのはハイスピードカメラ
イギリスに本社のあるホークアイの技術が最初に使われたのは2001年、クリケットの試合だ。テニスの試合の電子審判システムとして正式に使われるようになったのは、2006年から。通常、ひとつのコートには10個のハイスピードカメラがコート全体を囲んで高い位置に配置されている。すべてのカメラがボールと選手の動きを同時に追い、コントロールルームではそれが白黒映像でコンピュータ画面に表示される。「ボールが白で、その他が黒。その方がコントラストが分かりやすいから」とキャッシュ氏。
ちょうど試合中だった、米国のセリーナ・ウィリアムズ選手が打った球が画面に白く映し出された。この時点では映像はカラーの3Dではなく、白黒の2Dだ。ウィリアムズ選手は、男子トッププロ並みの時速200キロ以上の高速サーブを打てる数少ない女子選手。さすがに球のスピードが速い。ハイスピードカメラは1秒間に60コマの画像を撮影し、誤差の可能性は最大3.6ミリだという。
選手が主審の判定に対して異議を唱える「チャレンジ」の意思表示をすると、主審は「ウィリアムズ選手が、アウトと判定された右側ベースラインのボールにチャレンジします」などとマイクでアナウンスする。コートの観客席のいちばん上方端には別の小さなブースがあり、その部屋に詰めているATP(男子プロテニス協会)やWTA(女子テニス協会)のオフィシャル審判員が、ホークアイの画面を見ながら、判断すべきボールを画面でセレクトする。
プレーヤーが「チャレンジ」し、ホークアイの判定は「イン」。選手も観客も同時に大画面で結果を見られるのが最大の利点
セレクトされたボールの軌跡は、カラーの3D映像として観客たちが手拍子して見守るコートの大画面に映し出され、インかアウトかの判定を下す。主審がマイクでチャレンジのアナウンスをしてから、結果が表示されるまで、わずか5秒ほどだ。ホークアイ技術のハイスピードカメラは日本のソニー製で、ホークアイイノベーション社は2011年からソニーの子会社となっている。
エンジニアが支えるホークアイ
カメラが自動的にボールを追い、それが3D映像として瞬時に表示されるのであれば、コントロールルームに詰めている審判員やエンジニアはいなくてもよさそうなものだが、そうはいかないのがテニスの試合だ。
「太陽の照りつける昼間の試合と、ライトの下で行われる夜の試合のコンディションはまったく違う。風や雨も影響するから、どんな状況でもすべてのカメラのセッティングを万全にし、ボールを正確にトラッキングできるように細かくモニターするのが私たちの仕事」とキャッシュ氏。
ホークアイのコントロールルームにある画面をモニターするエンジニアのキャッシュ氏
通常の大会では3人、グランドスラムと呼ばれる世界四大大会では4人のホークアイのメンバーが各コートにはりつき、オペレーションを見守っている。ホークアイ設備のないコートでは、選手は主審の判断に従わざるを得ないが、トップレベルの選手、例えば優勝経験の多いロジャー・フェデラー選手などは、恐らく過去何年も、ホークアイのないコートでは試合をしたことがないだろうとキャッシュ氏は言う。それほどホークアイはトッププロの試合の一部になっているのだ。
"悪童"と呼ばれたジョン・マッケンローの場合、現役時代は、審判の判定に激しく逆らうことで有名だったが、シニアツアーに参戦する今は、さすがの彼もホークアイの判定に従わざるを得ない。主審や線審のジャッジミスも即座に映像で露わになるこの技術。ホークアイにより審判の判定が覆される割合は平均で約3割。選手にとっても観客にとっても欠かせないツールになりつつある。
ホークアイのエンジニアチームは、大会が始まる数日前に大量の機材と共に会場入りする。キャッシュ氏は東京の楽天オープンにも遠征し、カメラ、ケーブルなどすべての機材を運び、設置からテスト、実際の判定までを指揮した。ホークアイが正常に作動しないことはほとんどないというが、いちばん気を遣うのは電源の供給だ。昨年のカナダ・トロントの大会では実際に停電が起こった。
「電力の供給が切れてしまうと機能しないのがホークアイ。だから、電源の確保が常に最優先だ。稀に試合中に停電してしまうことがあるけど、停電したらスコアボードも機能しないから、昼でも試合は続行できない」
科学的トレーニングにも利用
10個のカメラが撮影したボールの動きが画面上に表示されている
試合中に選手がコートのどの場所に何割の確率でボールを打ったかが分かる3Dグラフィック画像も、ホークアイのソフトウエアで作製できる。そんな3D画像や映像が、スポーツ専門放送局のESPNやテニス・チャンネルで中継中に頻繁に使われるのも最近のトレンドだ。選手がチャレンジしなかったボールの軌跡も表示できる。試合中のサーブやショットの細かいデータなどは、当の選手やそのコーチがいちばん欲しい情報のはずだが、キャッシュ氏によれば、ホークアイが集めた試合中のデータには、選手やコーチはアクセスできない決まりだという。
試合の生データは公表しないが、ホークアイの技術を有料で選手のトレーニングに利用することはできる。ホークアイのホームページによれば、かつてプロランキングで女子1位まで上りつめたベルギー出身のキム・クライシュテルスは、自らが開いたテニスアカデミーにホークアイのシステムを導入。ハイスピードカメラをコートに設置し、プレーヤーとボールの動きを科学的に分析した結果をトレーニングに役立てているという。
このままホークアイの技術が進化していけば、人間の主審や線審は必要なくなるのでは? という議論もテニスファンのあいだでは起こっているが、キャッシュ氏は「審判は、やはり人間である必要がある」と言う。また、現行の「1セット3回まで」のチャレンジの権利については、これ以上増やさない方がいいという意見も多い。選手が主審の判断に「チャレンジ」をする場合、ホークアイの3D映像が大画面に映るまで、数秒間ではあるが試合が中断する。トップ選手の中には、その中断が試合のリズムを崩すからと嫌うケースもある。
特にロジャー・フェデラー選手は、ホークアイの判定に、鉄壁のポーカーフェイスを崩して不機嫌な感情を露わにすることも多いことで有名だ。逆に彼のライバルのラファエル・ナダル選手は、ホークアイのチャレンジ権利を使うタイミングが絶妙にうまい。過去のウィンブルドンのふたりの試合でも、その差が現れ、これがまた、ファンを引きつける要因にもなっている。
ウィンブルドン大会では、2007年からホークアイシステムを採用している。ちなみに、ウィンブルドンのセンターコートには、ルーファスという名の本物の鷹がおり、試合中にコートに飛んでくる鳩を追い払うセキュリティ担当として働いている。ホークアイより7年先輩のルーファスだが、テニスファンのあいだでは「リアル・ホークアイ」とも呼ばれている。
文・写真:長野美穂