2016/11/24

【イノベーターズ】「誰も知らないコンテンツを、ネットの力で光を与えた男」古俣大介

通信やICTにまつわる"なにか"を生み出した『イノベーターズ』。彼らはどのように仕事に向き合ってイノベーションにたどり着いたのか。インタビューを通して、その"なにか"に迫ります。今回は、才能はあるけど発表の場はないカメラマンたちが自身の作品を発表して売れるプラットフォームを作った、古俣(こまた)大介さんのインタビュー。

この人が経営するのは「ピクスタ」。彼自身が生み出し、10年で国内最大級の規模にまで成長したストックフォトの会社である。ストックフォトとは、画像を提供してくれるサービス。カタログや雑誌などの紙媒体からウェブサイト、テレビ番組までさまざまな用途に応じて、現在2,000万枚以上の素材が用意されている。ここには、登録すれば誰でも投稿できる。そして登録者も、素材の数も日々増殖している。

プロ・アマ問わず志あるクリエイターに対して門戸を開き、従来の同様なサービスよりもはるかに安価で利用できるようにしたのは、ピクスタの一つのイノベーション。でも、この項で語られるのはそれだけではない。古俣さん、ピクスタを通じて、さらなる別の未来の姿を思い描いているのであった・・・・・・。

始まりは大学時代。「ネットで起業だ!」と思ってしまったらしい。

古俣さんは1976年生まれ。ちょうど大学に入った年に「Windows 95」が発売され、インターネット革命の洗礼を受けた。「ワクワクした」という。時を同じくして、孫正義氏の快進撃を描いた本を読んだ。

「インターネットで世の中がどんどん変わっていき、新しい価値が生まれ、既存の業界に革新が起こると思ったんです。家にもネット回線を引いて、プログラミングの勉強もして・・・・・・これはあんまり実にならなかったんですが(笑)」

ネットでなにかビジネスを起こすんだ、というマインドだけは、強く深くセットされたのである。

ネットで事業を! 成功! でも辞めちゃう! の7年間

もともと起業マインドあふれる家庭環境。3兄弟の真ん中だが、3人とも経営者だという

実は、ここにもうひとつ背景がある。なんとご両親は2人とも起業家だった。お父さんは元商社マンで、、デパートなどの催事場で雑貨などを販売する仕事。実は2回倒産している。その最初の倒産の時、家計が大打撃を受け、驚くべきことにお母さんも「自分でも稼がねばならない」と起業したのである。

「だから僕も、小学生の頃から、将来は自分で会社をやらなくちゃなってなんとなく思っていたんです。自分で経営するのがむしろ当たり前というか、どこかに就職してサラリーマンになろうという気がもともと薄くて」

それで最初に手掛けたのが、コーヒー豆のネット通販。別にコーヒー通だったわけではない。たまたまおじさんがコーヒー豆屋さんを経営していたのだ。それをEC化しようと思いついたのが大学4年生の時。WEBサイトをつくり、顧客にメルマガを発行したりしていると、なんとなく3カ月目で月の売り上げは30万円に到達してしまった。

大学生が、余技で30万円売り上げることができれば、御の字だろう。でも、やめてしまうのである。

「それがね、"自分の事業"っていう感じがしなかったんですよね」

その後、自分の事業を求めて約7年間悶えることになる。ネットで注文を受け付ける小規模な印刷業を始め、そして辞め、巻くと腰痛が軽減されたり装着すると視力が回復するアイマスクなどの健康グッズを販売する事業を始め、それもまた辞める。

商売にならなかったわけではない。前者は約200社の飲食店を顧客に抱え、忙しく日々過ごした。今、ネット上には似たような形態の印刷屋さんが繁盛している。着想としては相当早い。

「デザインをクラウドソーシングしたり、ネットで印刷業を束ねるようなことができればよかったんですけど、営業からデザイン、印刷まで全部自分でやったので、手が回らなくて。結局、ネットと関係なくお得意さんのところに御用聞きに行くような状態で(笑)」

折悪しく、ネットバブルの崩壊が叫ばれていた時代だった。

「次のステップが見えなかったんです。そのままやっていても光明が見えなかった。頑張れば、10人ほどの会社をコツコツ続けていくこともできたかもしれないけど、それもちょっと違うなと。ネットにチョット懐疑的になっていて、ネットサービスじゃないことを選んでしまっていたということもあったし・・・・・・」

でも次の健康グッズは、ちゃんとネットを使った通販だったし、開業半年で500万円ほどの売り上げを得るようになったにもかかわらず、それも辞めちゃう。

果たして望みはなんだったのか。

「理屈で言うとどうなるんだろう・・・・・・自分がやることで新しい価値が見いだされないと、自分でやる意味がないと思っていたんでしょうかね。ECサイトって、カタログ通販の延長じゃないですか。そのとき売ってた商品も、楽天で検索すれば何十件もヒットするものなんです。たまたまSEOとかページのつくりが上手くいって、コンバージョンが一人でできたりするっていうだけのことで、"本質的に自分が生み出せる価値はなにか"とすごく考えていました。まあ、つまるところワクワクしなかったわけなんです」

大事なのは「果たして自分がやる意味のあることなのか」

小っちゃい頃からそうだったという。

「子どもの時から興味を持つことには没頭できるけど、そうじゃないことは手につかなかったですね。友達はいるし一緒に遊ぶんですけど、"人がやってる"っていうだけで、なんの疑いもなく参加することはなかったですね。ちょっとスナフキンみたいな、集団とは別のところで孤独にやってるのが好きだったんです。でも不安はあって時々は加わろうとするんですけど、やっぱり面白くないんですよね。地元の祭りも行きたくない。でも祭り囃子が聞こえるのは気になる。で、行ってみるけど居心地悪くて早く帰って家で好きなことをやってたい、みたいな(笑)」

「好きなこと」というのは、漫画だったり、ゲームだったり。時に1980年代後半ごろ、好きだったのは『こち亀』に『MASTERキートン』『コータローまかりとおる!』。『ドラゴンボール』や『スラムダンク』も読んでいたけれど、「なにも自分が応援しなくても・・・・・・」という気分だったらしい。ゲームも同様。国民的二大RPGよりは、コーエーの『三国志』。お父さんは「恐ろしくフラットというか柔軟な人間で、基本ポジティブ。"勉強しろ"とか一切言わなかったですね」

そんなわけで、社会がどうあれ、世間体がどうあれ、「それは自分がやる意味のあることか否か」がかなり優先される価値観が身についた。で、そこそこ生活に安定をもたらしていた印刷業も自ら畳む。畳んでなにをしていたかというと、「なにをしたいのかをひたすら考えていた」らしい。それがまさに「考える作業」そのものだった。

文字通り「考えまくる」日々

非常に淡々と、苦しかった過去も面白げに語ってくれる

「埼玉県八潮市にもともと両親の住んでた空き家があって、そこに兄貴と2人で住んでました。ネズミが出まくるので、駆除の技術はプロ並みになれたっていう副次効果はありましたね。そこで新聞記事を切り抜き、ある分野においての新しい視点の記事に着目し、新しい企業の動向を見て、本屋に立ち読みに行ったり。日経・日経産業。日経MJ・日経ビジネスに、"最先端のネットビジネス紹介"みたいなメルマガも読んで・・・・・・天井をじっと眺めながら、本当に考えてました」

印刷屋さんを辞めて特に収入源もないまま考え事だけしていたわけだから、当然、数カ月で破綻。前述の健康グッズを販売することになる。でも実はそれ、お父さんから「なにもすることないならこれでも売れ!」と提案された、助け舟だったのである。ところがこのビジネス、驚くべきことに半年もしないうちに月商500万円に届く。

でも、古俣さん、健康グッズ販売をしたかったわけではないのである。ことごとく儲かる事業に自ら背を向けてきた。

「生活できるようになったからこそ、本当にやりたい事業を考える時間ができたんです。それで当時は10時から18時までECの仕事をやって、ごはんを食べて20時ごろから夜中2時までずーっと事業について考える毎日でした」

考えるやり方は、ちなみに以前と同じである。

「今の嫁と当時付き合ってたんですが、彼女と会うのが唯一、外界との接点。ECの方は兄と一緒にやってたんですが、家が事務所だし、兄と同居なのでずーっとそこにこもってたんです」

印刷業を辞めたのが2003年3月、同じ年に健康グッズを売り始め、ピクスタを立ち上げたのが2005年8月。「兄と同居」「兄と家でEC」「時々彼女とデート」という生活を2年あまり続けていたことになる。

誰の目にも触れてないコンテンツに、ネットの力で光を!

その日々がピクスタにつながることになるのだが、日々の考え事が事業のアイデアとして身を結ぶのは、果たしてどんな感覚なのか。

「アマチュアカメラマンの、レベルの高い作品をネットでいっぱい見るようになって、自分が扱うべきはコンテンツとかクリエイティブとかメディアとかそういう分野かなというのが見えてきて、すごい濃いモヤが、道を進んで行くにつれて少しずつ晴れるような感覚が1カ月単位で起こって。埋もれてる才能も、ネットを使えば世の中にどんどん発信していけるなっていうところに気づいたんです。また、ネットに作品をアップしているアマチュアの方ってすごい熱量でしたし、そこもくみ取っていけるのではないかと」

それがピクスタの原点。

ガイアックスという会社に間借りし、最初は知り合いから写真を集めまくった。オープン初日は知り合いの社員ばかり約100枚。あちこちのメディアにリリースを送ったら3つの媒体に載って、50人のクリエイターが登録。3日で500枚が集まった。ちなみに、ピクスタの写真はこの頃から累積でナンバリングされているらしいのだが、8番の「流線型ビル」は、古俣さんが自前のGRデジタルで撮影したものらしい。今も残っているので、よろしければチェックを。

「デジタル一眼を手にした、才能はあるけど発表の場はないカメラマンたちが自身の作品を発表して売れるプラットフォーム」

誰かが撮った写真を買い取ってカタログや雑誌に使うことのできる、いわゆるレンタル写真業は、それまでは1枚数万円という値段だった。ピクスタは、「発表したいクリエイター」と「使いたいメディア」をマッチングさせ、法整備を行うことで、何度も使えて1枚ワンコインから、という画期的なビジネスモデルをつくり上げた。古俣さん自身が昔から好きだったコンテンツを題材に、インターネットのパワーを使って拡散させる――。ピクスタは理想的な事業だった。

オープンから2カ月ほど経った時だった。ある日、会議中の古俣さんにメールが届いた。それは、写真が売れたことを知らせるものだった。

「たぶん普通のデザイン会社さんがまとめて3点買ってくれたんですね。もう堪らなかったですね! 何年も天井を見ながら考えてきて、これが自分だけが生み出せる価値だ! って世の中に問うたものが初めて形になった瞬間でした・・・・・・。でも、そこからこれほど苦労するとは思ってなかった(笑)」

誰もがフラットな「クリエイティブプラットフォーム」を目指す

最初の3年はほぼ利益なし。でも、売れないのに「自分の作品を発表できる場」と「販売できる可能性」の期待で投稿者たちの熱量は高まり、いい写真は集まり続けた。

「最初の2年は資金調達ばっかり(笑)。当時10人前後いたメンバーはみんな20代で独身でしたからなんとかなったんですね。投稿数が増えても、それを使う人々に見つけてもらうところのパイプが寸断されていて、そこをつなぎ合わせるのに2年ぐらいかかりました。それとコンテンツにはある程度の要求に応えられる網羅性が必要で、それらがうまく噛み合うのに3年ぐらいかかりました。その時でコンテンツは30万点ぐらいだったかな」

今では画像点数2,000万枚以上、クリエイターは20万人以上。1日約2万点ペースでの投稿があるという。すごい! だけど、こういうストックフォトの世界って、「もう写真はだいたい十分」といった、ある種の飽和状態にはならないのだろうか。

「時代の変遷によって必要な写真も変わりますからね。ガラケーがスマホになるだけで"通話中"の画が変わるでしょうし、AIとか太陽光発電とか求められるイメージがどんどん増えていきます。買う側も最初は紙媒体やテレビだったのが企業のウエブサイトとか、ソーシャルメディア、オウンドメディアになり、必要とされる画像のジャンルも増えます。世の中的に使う画像の総量って、この10年で数十倍から数百倍になってるんじゃないかな」

実はピクスタのサービスを「ストックフォト」というふうに限定するのも少し違うようだ。ピクスタが少しずつビジネスとして成立していく過程で、古俣さんのなかには新たなビジョンが生まれ始めていたのだ。

それがすなわち「クリエイティブプラットフォーム」。

「ピクスタでは、写真やイラスト、動画を扱っていますが、ほかにもコンテンツのジャンルっていっぱいありますよね。活字もそうだし、音楽、アニメ、マンガもそう。写真と同じようにそういうところで埋もれている人たちは世界中にいっぱいいるはずです。そうした人たちの作品の発表の場であると同時に、リアルな世界とのマッチングを図りたいんです」

今年から「フォトワ」という、写真を撮ってもらいたいユーザーと写真家をマッチングさせるサービスも始めている。主な利用シーンは、七五三、お宮参り、入園・入学、卒園・卒業、成人式などなど。平日1万9,800円〜で、75枚以上の写真を撮影してもらえる。撮ってくれるのは、空き時間を活用したいカメラマンたち。記念日に街のフォトスタジオを利用したことがある人にとっては、これがいかに利用しやすい金額設定かがよく分かるのではないだろうか。

古俣さんは「インターネットでフラットな世界をつくる」をピクスタの理念に掲げている。

「今は、例えば会社員をしながら写真を撮ったり曲をつくったりっていうのは、仮にそれがお金になったとしても副業っていう捉え方ですよね。僕の思う世界に近づいていくと、それは"複業"という呼ばれ方になるんです。インターネットのおかげで、誰でも表現したものを発表できるチャンスが得られる。そしてそれを世界中の人たちから使われる可能性がある。レスポンスが来て、もしかしたら大きく稼げるかもしれない。そういうことを等しくできる世界を目指しているんです」

文:武田篤典
撮影:有坂政晴(STUH)

古俣大介

1976年生まれ。多摩大学在学中に、コーヒー豆のECを開始。株式会社ガイアックスに入社後、新規事業部や子会社の立ち上げ、2002年1月に有限会社万来設立。飲食店舗向け販促デザイン&印刷事業を開始。03年、健康グッズのECを開始。05年8月、株式会社オンボード設立(現・ピクスタ株式会社)。翌年5月より「ピクスタ」をローンチ。