2016/09/07

【イノベーターズ】「“指紋ひとつ”で現金のない世界をつくる男」久田康弘

通信やICTにまつわる"なにか"を生み出した『イノベーターズ』。彼らはどのように仕事に向き合い、いかにしてイノベーションにたどり着いたのか。本人へのインタビューを通して、その"なにか"に迫ります。今回は、画像解析のパイオニアにして、"使える生体認証"を世界に広げつつある「Liquid」の久田康弘さんのインタビュー。
ものすごく端的にいえば、指紋ひとつで支払いができるシステム。テーマパークでは手ぶらで遊べるし、量販店でも指1本で買い物できればポイントまで貯まる、という。指紋の検索と照合のスピードを劇的に早めて、それだけで決済できるようにしたところが、イノベーション!

小さいマウスぐらいの箱には楕円の形に3つの"えぐれ"があって、そこに人差し指・中指・薬指を乗せる。箱に接続されたタブレットで携帯電話番号を入力。すると、電話にSMSが届いて認証。以上で登録は完了。このあと、電子マネーみたいに指紋でピッと支払いができる――

これがLiquidが開発した「Liquid Pay」という指紋決済サービス。目の前でサクサクとデモンストレーションしてくれたのが創業者で社長の久田康弘さんだ。

指紋でお金が払えるシステムの秘密

生体認証はスマホの指紋認証をはじめ、銀行ATMには静脈認証がついてるのもあるし、虹彩をスキャンして入退室を管理している施設なんかもある。なので、指紋を登録して電子マネー的に使えるぐらいは、「べつにフツー」という程度の印象しかなかった。だが久田さんの説明を聞くと驚くのである。あ、この時点で「バカ、スゴイことじゃん」と言える人は何行か飛ばしてください。

「たとえば銀行のATMならキャッシュカードがあって、そこに指紋とか静脈の画像情報が入っています。カードを入れるとそのデータが吸い出されて、実際にATMにかざした指紋と1対1の照合をする。オフィスとか研究室とかの入退室も指紋とか虹彩の管理することもあるんですけど、そこに日常的に出入りする人が1,000人ぐらいとして、彼らのデータがドアノブのメモリーに登録してある。出入りする時はそれらと照合するから、せいぜい検索・照合の対象は1,000対1ぐらい。それが指紋認証のユーザーの最大値だったんですね。でも、決済に使うには少なく見積もっても100万対1ぐらいで照合しなくちゃならない」

指紋の登録用の端末。指を乗せてタッチパネルから携帯電話番号を入力する。それだけで最低限度の本人確認と、与信審査が即時完了。スマホのアカウントは複数取得が可能だが、世の中にひとつの携帯電話番号と指紋を組み合わせれば、非常に強力な個人特定の材料となるのだ

そりゃそうだ。その場所で登録した1,000人しか使えない電子マネーがあったとして、そんなのなんの役にも立たない。登録しさえすれば、誰でもどこでも使えてこその電子マネーだ。開発の前に久田さん、その「100万」という数字を、既存の生体認証システムの大手ベンダーにぶつけてみたという。返ってきた答えは「登録するメモリーを分けてください」「別にカードが必要ですね」「本人特定のためのコードを付けるのはどうですか」

生体情報を登録してるのに、別にカードを持つなら、そもそも生体情報などいらないのだ。要は、100万対1で生体情報を検索して照合するなんて、不可能だったのである。

「そこが我々の最大の強みなんです。従来の生体認証は、座標軸の一致を見ていました。たとえば顔でいうと、目頭とか鼻頭とか特異的な場所を、コンピュータが座標軸の位置情報として認識していたんです。逆に言うと、どんな顔をしていようが、アイテム名と座標軸としてしかコンピュータは取り扱わない。目尻は「0.3/1.2/3.3」みたいに顔のパーツの位置をデータ化して座標で表すことになります。コンピュータは、その数値を照合するわけです。登録者が1,000人いたら、1人を特定するためには1から1,000までの数値を全部参照しなきゃならないんですね。

"そこしか使ってないのか!?"って驚きました。コンピュータじゃなく人間だったら、会った人の顔は感覚値としてわかりますよね? "似てる系統"に分けることができる。僕らが取り入れているのはそれに近いやり方です」

従来の多人数メモリ型の生体認証では1人照合するのに0.05〜0.1秒を要していたらしい。それを一気に数十〜1,000倍程度のスピードに短縮した。

なぜ、久田さんの登場まで実現できなかったのか。簡単に言うと「儲からないから」。

日本のソフトウエアベンダーの多くは、ソフトウエアをハードウエアとセットにしてお客さんに売ることで成り立つシステムらしい。だから一度"指紋認証"を売ってしまうと、今度は"静脈認証"とか"虹彩認証"とか、次々と新しいソフトウエアを開発し、静脈読み取り機とか虹彩読み取り機とセットにして売ることになる。一方、海外では、レベニューシェアのモデルが一般的。要するに、導入に費用はほとんどかからず(あるいは無料)で、ユーザーが使い続けることで収益を上げるという。

「だから、そこにチャンスがあると思ったんです」

「Liquid」はUSBで指紋リーダーをPOSレジにつなげれば、指紋決済が可能になるという簡単さ。・・・・・・と、書くとシンプルだけど、もちろん、そこにはイノベーターと呼ぶにふさわしい慧眼もあるのであった。

スマホのブーム到来で、彼だけが気づいた

「Liquid」が設立されたのは2013年12月のこと。その前には久田さん、大和証券SMBC株式会社で3年働いていた。ちなみに大学は法学部。「いちばんやりたくない学部に入れば?」という、同じく付属校出身のお兄さんからのアドバイスで選んだ。

「好きなことは自分で勝手にするので、好きじゃないものに触れる環境にしたほうがいいと。それで、社会に出た時に、最低限知っておいたほうがいいルールを学べるところがいいかなと思って」

法学部は、今の仕事とはあんまり関係ない。大学の授業以外はずっと興味のあった金融工学の本ばかり読んで過ごして、「いずれは起業か経営」と考えていた。いつも自ら、どこかから課題を見つけてきては解決することに喜びを感じる性質だったという。

証券会社に入る時には「いずれやめます」宣言。将来の起業に必要な各種スキルを学ぶための修行と割り切っていた。

くだ やすひろ
慶應義塾志木高校在学中から経済システムのオタクを自認。慶応義塾大学では法学部を選ぶが、金融工学、とりわけ統計数理を個人的に学ぶ。卒業後、大和証券SMBC株式会社に入社。IPOコンサルや企業再生を手がけ、3年で退社。いくつかのベンチャー企業技術顧問、事業支援などを行ったのち、2013年に「Liquid」を設立。幼い頃から、いつも自分で何がしかの課題を見つけ出し、解決策を見出すことに喜びを感じてきたという。「いや、何か中二病的な、人と違うことをやりたいという性質はありましたね。逆張りが好き、みたいな」

「自分でやるかパートナーさんとやるかはわからなかったけど、マネジメントとか資金調達とか、ひと通り外側からでも近いところで体験したいと思ったんです。まずは流通市場の流れ、融資や株式引き受けの審査のようなかたちで企業の調査、そのあとがコンサルティング。通常の証券会社は手続き面のコンサルがほとんどなんですが、僕は入り込んで経営やシステムの提案までしていました。範囲は逸脱していたけど、お客様に好かれればなんでもいいだろうと。それで色々な企業のオーナーさんたちに可愛がっていただき、情報交換するようになったんです」

最後のコンサルの時になると、もう会社を経営できる気になっていた。

「資本主義のルールみたいなものを体感できたし、マネジメントも体験させてもらうくらい。目の前で上場していく会社が何社も出てくると、自己暗示にもかかってたんでしょうね(笑)」

それが2011年ごろ、ちょうどスマートフォンが世に出始めた時期である。携帯電話キャリアはどこもアプリベンダーを探していて、仕事で向き合うベンチャー企業の経営者たちからスマートフォンについてよく意見を求められていたという。

その時、久田さんは、アプリじゃないスマホの可能性を見出したのだ。

「衝撃だったのは、物理キーボードのないところでした。PCといいガラケーといい、キーボードを搭載しているデバイスは、基本、人間がデータを01にして入力するものでしょう? キーボードのないスマホは、カメラがセンサー化して情報を司っていくんじゃないかと直感的に思ったんです。

スマートフォンの登場以降、ユーザーの投稿の情報量は減り続け、写真や動画がコミュニケーションに中心になりつつあるという実感があって、これからは自然言語処理や数値処理より、画像解析をやれないとユニークになれないし、その領域にこそまだチャンスがあるなと。

みなさんインターフェイスの斬新さに注目されてましたが、僕のなかでそこは重要な変化ではなかったんです。スマートフォン=センサーとしての役割になっていくんじゃないかって、なんとなく思っちゃったんです。そもそもそのころ、おかしなことを言っていて、グーグルに勝てるような検索エンジンをつくりたいと。自然言語処理だったら無理っぽいので、そこで"じゃあ画像解析だ!"って決め打ちで(笑)」

できるかできないかより、やらなくちゃだった

その思っちゃったことを実現できるかどうかはわからなかったけれど、「このタイミングでやらなきゃいけないっていう方が強かったんですよ。今じゃないと、この流れには乗れないだろうなと。波がきてから乗ったら乗り損ねるので、来る前に乗らなくてはと」

画像解析のパフォーマンスをアピールするには人の識別をするのがわかりやすいと考え、まず東工大の教授からの推薦を受けて、東大系ファンドと一緒に総務省主催の新しいIT企業向けのプロジェクトに応募・・・・・・するのは良いのだが、わからないのは、投資銀行で経営を学び金融工学オタクだった久田さんが、なぜ画像解析技術にも明るかったのか、という点。

尋ねてみると「"解析"というところが同じなんです。金融工学でも画像解析でも、どちらもやることは数値解析なんです」と涼やかに笑っている。

「前者がすでに01の世界のデータになっているものを解析するのに対し、画像は、それを01の世界に落としこんでから解析するところの違いですね」と、やはり笑っている。

以前のコネクションを最大限に活用し、様々なベンチャーや大学の研究室から志ある仲間たちを集めて、最初は4人からスタート。あるタレント事務所に、「将来売れるタレントさんを識別できる技術」を提供したり、コツコツとキャリアを積み上げてきた。「Liquid」の画像解析技術を使えば、生体認証の領域でいろいろなことができるよね、と仲間たちと話をするなかで「どうせ生体認証まで登録するなら決済もできたほうが楽じゃん」ということになった。

「僕の周りを見たら、なんだかんだで財布にカードが70枚ぐらい入ってるヤツもいて、みんな財布がパンパンで(笑)。まだApple Payとかも出てきていない頃でしたね。まだスマートフォンの生体認証もやっていなかったかな。今の財布はいちばん薄いタイプ・・・・・・というか財布すら持っていないこともしばしば。Suicaとクレカぐらいしか持っていない。現金はほぼ持っていないですね(笑)」

今、「Liquid」で働くメンバーは約30人だ。

画像解析がもたらす未来はどんな感じ?

指紋認証システムは今もバリバリ早くなっているという。一応の"ゴール"は「Suicaより早く非接触でデバイスレスでっていうところですね。さっと手をかざすだけで認証される。目途は見えています」

指紋の用途と規模は広がっている。テーマパークや宿泊施設、家電量販店、コンビニなどで、各種支払いができるだけでなく、ポイントカード代わりに使えたり、パスポート代わりに本人確認に使えたりもするようになっていく。ホテルで訪日外国人がチェックイン時に指をかざすだけで本人確認ができる「プロジェクト池袋」という実証実験も、現在展開中だ。

池袋の『サンシャインシティプリンスホテル』に宿泊する訪日外国人は、フロントの専用端末で指紋とパスポート情報、クレジットカード情報を登録することで、以降、指紋をID代わりに使えることになる。しかも、ホテル近辺の一部の『ヤマダ電機』や『タイムズ』でも、指紋をクレジットカード代わりにした決済も展開されている。

財布もカードもいらなくなる社会が近づいている! ・・・・・・が、逆に言えば、財布もカードも持てなくなるのだ。イタリアの高級ブランドの押し出しの強いかっこいい財布で威張れることもなくなれば、支払いの際にステイタスを感じさせる色合いのクレジットカードを誇示することもできなくなる。全部指紋でOKなのだから。

「そうなんですよね。そういう声はよく聞きます(笑)。でもたとえば、高級ブランド店の顧客の方とかは、もう入店時に認証しておいて、好きなアイテムを選んだら、そもそも"お金を払う"という工程すらなく、"じゃあ、また""ありがとうございました!"なんてやりとりだけで去っていく・・・・・・みたいなのって、むしろかっこいいかもしれませんよね(笑)」

かつて久田さんの財布はキャッシュカード、クレジットカードのみならず各種ポイントカードなどでパンパン。友だちも同様。肥大化しているケースが多かった。そしてわりと「落とすタイプで・・・・・・(笑)」。指紋による決済は、自身にも周囲にも幸せをもたらすものだった。今、財布は、市販のなかでも最薄。もはや持たないことも普通。そんな時はスマホとカードだけでだいたい事足りる

広がるのは指紋だけではない。顔認証や声認証も。そして用途は決済や本人確認だけではない。

「たとえば、人の体型や動きを読み取って、何年後にどの箇所に故障がでるか。腰や肩が痛くなるかどうかという、未病のためのソリューションなども考えています。人間は体型や動きによって特性が出るので、それを解析する、ということも研究中です。こうしたヘルスケアの領域だけじゃなく、スポーツ、アパレル、自動車の領域でも・・・・・・」

それらと画像解析、生体認証がどう組み合わさるのか、なにが生み出されるのか、まったくイメージがわかない。が、そこはどうやら新たなイノベーションらしく、まだ一切話せないとのこと。

バリバリ研究開発が進んでいる一方で、今の久田さんの仕事は海外事業の立ち上げがほとんどだ。「去年の終わりぐらいから、国内はみんなにお任せしつつ、楽しんでやってます。やっぱり僕、なにか新しいほうに行かないとモチベーションが維持されない人間なので(笑)」

文:武田篤典
撮影:有坂政晴(STUH)