2016/06/09

【イノベーターズ】「日本最古の音楽系ECサイトをつくった男」伏谷博之/前編

ふしたに ひろゆき
1966年島根県益田市生まれ。90年、タワーレコード心斎橋店にバイトとして入社。94年、新宿ルミネ店店長。96年、デジタルビジネス事業部部長。97年「@TOWER.JP」をローンチ。2001年マーケティング部を設立し、03年執行役員マーケティング担当に。04年、株式会社NMNL設立、代表取締役社長に。05年よりタワーレコード株式会社代表取締役社長に、同年ナップスター・ジャパン株式会社設立。07年、タワーレコードを退社し、09年より『タイムアウト東京』を設立

通信やICTにまつわる"なにか"を生み出した『イノベーターズ』。彼らはどのように仕事に向き合い、いかにしてイノベーションにたどりついたのか。本人へのインタビューを通して、その"なにか"に迫ります。第1回は、「日本最古の音楽系ECサイトをつくった男」、伏谷博之さんです。

「結構俺ね、集中するタイプなんだけど、集中しながら幽体離脱してクールに自分を見てるところがあって。ちょっとしたコンプレックスなのかもしれないけど、完全に没入してないんだよね。"僕ってこういう人です"って言えないかもしれない。漫画家です! とか、今これに夢中なんだ! とか」

ロックスターみたいだ。それもこっちを威圧しないタイプの。ロン毛で無精ヒゲで黒のTシャツは七分袖。最初からタメ口で。でも全然横柄とか無礼とかいう感じではなくて、とにかくご機嫌。

と、同じテーブルの美女が「ずるいんですよ」と微笑んだ。「社外にはこんなふうにゆるーく見せてるから、"伏谷さんって優しくてすっごくいい上司ですよね"ってよく言われるんですけど、全然(笑)。社内では超重箱の隅をつつくタイプですよ」

「ネタですけどね」と返す伏谷さん。被せるようにして「ネタじゃありません」と返され、ニヤニヤしている。傍らの美女は東谷彰子さん。コンテンツ・ディレクターと名刺には入っている。何の? 『タイムアウト東京』である。

大学5年。タワレコのバイトが「スタート」

伏谷博之さんは、タワーレコードで、日本最古の音楽系ECサイトを立ち上げ、早すぎるサブスクリプション(定額制)音楽配信サービス「ナップスター」をアメリカから持ち込んだ。ちなみに(有名なエピソードだけど)、タワーレコードにはバイトで入って社長になっている。間違いなくレジェンドだ。でもゆるゆるしている。話していると和む

『タイムアウト』はイギリス人のトニー・エリオットさんという、現在69歳のおじいさんが、ハタチの頃に創刊したシティガイド。ビートルズとストーンズとヒッピーカルチャーとヌーベルバーグがぐちゃぐちゃになって弾けていた60年代のロンドンを生々しく伝えるために生まれた。今では世界41カ国109都市で展開している。その東京版をつくっているのがこちらのオフィスだ。

この『タイムアウト東京』が、現時点での伏谷さんの最新の"イノベーション"。2009年に日英2カ国語のウェブマガジンとしてスタートし、2013年からは英中2カ国語に対応する紙の雑誌もできた。「『コンテンツ大国』とか『観光立国』って言われ始めたころに、"外国人に日本のものにお金を使ってもらうのはいいことだよ!"と思って」

「@TOWER.JP(現在のタワーレコードオンライン)」に着手したのは1996年。そもそものキャリアのスタートは90年だった。大学5年生の時にタワーレコードでのバイトを始めた。生まれは島根県益田市、高校時代からバンド活動をしていて、あわよくばデビューを目指し、進学という口実で大阪に出てきた。たまたま心斎橋の新店舗のオープニングスタッフになり、そのまま正社員に。心斎橋店はタワーレコードの実験的な店舗として成功を収め、心斎橋の店長がその手法を踏まえて新たに東京にオープンする新宿ルミネ店の開店スタッフに誘われた。それが92年のこと。転機が訪れるのはその3年後だった。

「渋谷店が出来たんだよね。店長は、それまでルミネ店を仕切ってた直属の上司。で、すぐに新宿ルミネ店を抜いて売り上げトップの店舗になったの。僕はスライド式で新宿ルミネ店の店長になってたんだけど......」

環境が完全に変わっていた。タワーレコード渋谷店というのは、あの有名なタワーレコード渋谷店。地上8階、地下1階に内外のさまざまな音源が詰まっていて、ずらっと試聴機が並んでいてインストアライブも頻繁で、世界のセレブ的ミュージシャン直筆のメッセージとか衣装とかが展示されてる、あの"渋谷タワレコ"。新宿ルミネ店に営業に来てたレコード会社の人々もほとんど渋谷に鞍替えしてしまったらしい。

伏谷さんは燃えた。「あんなレコード会社の倉庫みたいな、でっかいだけの店に負けるかよ!」。でも同時に萎えもした。「そもそも俺ってレコード屋の店長やる人生だったんだっけ?」。レコード屋さんとして天下を取ろうとか、己の好きな音楽を日本に広めるぜとか思ってたわけではなくて、ただ面白かったから。

最初にバイトで入った心斎橋店が、とにかく創造的だった。「J-POP売り場」を初めて展開したり、インストアライブや試聴機を積極的に導入。のちのタワーレコードの店舗のスタイルを確立するような店だった。バイトでもミーティングで発言しなくちゃ「ダメ」だったし、バイトなのに勝手に近所のデパートに偵察に行ってディスプレイの手法を盗んできたりしてたし、店が駅から離れていて客足が天候に左右されるからといって、バイトなのに「最強の品揃えにして対抗しよう」なんて考えたりした。

「ダメなところは自分たちでなんとかして、ないものは自分たちでつくるみたいな仕事のやり方は、この時代に身についたと思う」

日本一のレコ屋店長から、日本初の音楽系EC社長へ

その心斎橋での"刷り込み"がプラスとマイナス両面に作用したわけだ。ネガティブな状況に対してやる気が出たと同時に、終わらない文化祭みたいな状態でここまで来たため、あらためて自分のあり方を見つめなおそうと思った。伏谷さん、まもなく30歳になろうとしていたのだ。

「で、直属の上司に会社を辞めますって言いに行ったの。上司は元の心斎橋の店長で、渋谷店の店長を経て、その時には営業本部長になってたかな。そしたら"なんかやりたいことはないの?"と。"経営会議に企画もってこい"って言われて」......渋谷店なんぞに負けるかよ! の方のモチベーションが伏谷さんの鎌首をもたげた。

「それでちょっと考えてたのが、Eコマースだったの。わりと一所懸命調べて、アメリカには『ミュージックブルバード』とか『CD NOW』とかいうのがあって、インターネットで通販すれば、持っておくのはデータベースだけでよくて、在庫は無限大だと。渋谷店の在庫が当時十数万枚だったから、無限大だったら俺の勝ちじゃない? って思って」

そうして企画書書いて経営会議に乗り込んだ。どっちみち辞めりゃあいいと思ってるから強い強い。

「結構な剣幕で"小売りやってるんだから、当然Eコマースやりますよね"って。みんな知らないっていうから、"どういうことっすか⁉"って。予算を聞かれて"ン億円"って言った覚えがあるよ(笑)」

果たして企画は通った。ただし予算は「0」。そして副社長からは、「二度とあいつを経営会議に呼ぶな」というお達しももらった。「@TOWER.JP」がローンチするまでの約1年間、めちゃくちゃ楽しかったと伏谷さんは言う。

「『デジタルビジネス事業部』って名乗って。当時テクノが流行ってたからそれっぽいカタカナで『デジビズ』ってロゴを友だちにつくってもらって名刺に入れて、まあやることないからネット系に強そうな会社を訪ねては、ECやりたいんで協力してくださいって毎日外回り。渋谷タワレコの店長室の一角で、部員は俺ひとりで、新宿ルミネ店の店長辞めてきてるから、なんかやらかしたってみんなに絶対思われてたよね(笑)」

全然実を結ばない営業&啓発活動は、日本のインターネットの父との出会いで一気に実現する。

「広報室の谷河(立朗)君が伊藤(穣一)さんを紹介してくれて。企画書持って会いに行ったら"なるほどね、分かった! タワレコでECって面白いね! これからインターネットが世界に広まると、より世界は▲○※☆♪!△■○♪☆※△でさ......"って、後半はなに言ってるか分からなくなってきたんだけど、とにかく最後に"いろいろ声かけます。手弁当でつくりましょう!"って言ってくれて。"よし! つくるって言ったぞ!"って。それでジョーイさんがあちこちに声をかけてくれて、ようやくプレーヤーが集まった」

そして「@TOWER.JP」は97年に開業。......なお、最初の月の売り上げは十数万円だったという。

文:武田篤典
撮影:有坂政晴(STUH)