2016/05/02

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2018/05/25

【おもいでタイムライン】第6回:1996〜1993年、『携帯』から『ケータイ』に

1995年の暮れ、Microsoftから発売されたWindows 95を買い求める人々。その光景はメディアでも大々的に取り上げられた
写真提供:朝日新聞社

日本で初めての携帯電話「ショルダーホン」が発売されてから、約30年が過ぎました。そして携帯の進化と同時に、私たちのコミュニケーションも大きく変化してきました。携帯電話の歴史は、コミュニケーションの変遷の歴史でもあるんです。

では、一体どんなふうに変化してきたのでしょう?

連載の第6回は、1996〜1993年までさかのぼってみましょう。

「携帯」という言葉は、本来は「身につけたり、手に持ったりすること」という意味。ですが、いつの頃からか「携帯電話」を指すようになりました。

そもそもは多忙なエグゼクティブが、いついかなる時でも連絡を取れるように活用し始めたビジネスツールでした。が、この時期、同じく単なるビジネスツールだったポケベルが女子高生のコミュニケーションツールとして人気を集め、携帯電話も若者たちにとって憧れのアイテムへと変わってきました。そして、契約の方式や料金形態が見直され、現実に手が届くようになってきたのもこの時代。「ケータイ」は「家の電話から家の電話」に縛られていた若者たちの通信スタイルを一気に自由にしたのです。

かつて、ある著名な小説家が主張したことがあります。「略するのであれば"携電"とすべきだ」と。「ケータイ」だと、「電話」の要素がなくなってしまうから。でも実は「ケータイ」で正解だったのかもしれません。携帯電話はこの時、単につながって話せればいいというだけの存在ではなく、さまざまな特徴を持ち始め、特殊なデバイスへと変わり始めていたんですから。

携帯電話がすべて「レンタル」だった時代

携帯端末売り切り制がスタートした当時の、旧IDOの店舗(写真提供:朝日新聞社)

みなさん知ってます? 1993年ごろ、携帯電話って全部レンタルだったんです。保証金や加入料が必要で、携帯電話の基本使用料も1万円以上。通話料金も今よりもグッと高くて、まだまだ携帯は「特別なもの」だったんです。

変化が訪れたのは94年。携帯端末売り切り制がスタートして、好きな機種を自由に"買える"ようになりました。保証金は不要になりましたが、それでも加入料が3〜4万円、端末の価格は10万円前後、さらに諸経費で、携帯電話を持つための初期費用はおおよそ15万円ほどかかったものです。

この頃、若者たちのコミュニケーションツールの中心はポケベルでした。 「0840」とか「114106」とか「33414」とか、数字の並びをメッセージとして送り合うわけです。意味はそれぞれ 「おはよう」「あいしてる」と「さみしいよ」です。

その後、ポケベルは日本語を表示できるようになり、恐るべきスピードでプッシュホンから入力する超絶技巧の女子高生なども現れました。そうそう、ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』(日本テレビ)とその主題歌がヒットしたのが93年でしたね。

当然ですが、ポケベルって受信専用。受け取ったメッセージへの返信を相手のポケベルに、また暗号やらカタカナで打ち返していたわけです。そんな当時の若者たちへの救いの手となったのがPHS。彼らはピー・エイチ・エスとは呼びません。「ピッチ」です。念のため発音は「ピッチ(↓)」ではありません。「ピッチ(↑)」です。「ベル友」や「ポケベル打ち」という呼び方もこの頃を象徴する言葉です。

そして一気に加入者が増えた。

写真提供:朝日新聞社

PHSのサービスがスタートしたのが95年。コードレスホンの子機の仕組みを利用した規格で、とにかく加入料も基本料金も安く、通話料は公衆電話とあまり変わらず、ポケベルユーザーだった若者たちに圧倒的に支持されるようになります。

高校生のお年玉でなんとかなる加入料と、おこづかいでなんとかなる基本料金。通話はそもそも着信メイン(相手のポケベルへの発信程度)で多用せず、通話する場合は家電(いえでん)から相手のPHSヘ。とまぁ、チマチマ使うのが当時の学生さんのスタイルでした。

携帯電話の事業者は東名阪で当時4社、PHSは3社がしのぎを削り、おのずと価格競争は激しくなっていきました。「音質はピッチが良い」なんて言われたものですが、一方で、PHSと争うようなかたちで携帯電話の加入料や基本料もどんどん下がり、96年末にはとうとう加入料自体が廃止。同じ頃にはPHSの方でも新しい事業者が、端末を0円で配布するなんてことを始めました。

ここで携帯電話は一般層にどんどん普及することになりました。93年度末には213万件ほどだった加入契約数が、96年度末には携帯電話・PHS合わせて、なんと2,690万件にまで膨れ上がったのです。

携帯電話はよりパーソナルに。

この頃、際立った携帯電話史上のできごとがあります。それは「色」。それまで誰も疑問を持たなかった「黒いボディカラー」からの脱却が始まりました。ゴールド、シルバー、ピンクなどが登場し、市場は賑やかに。ほとんどビジネスシーンだけで使われていた携帯電話が、新たな層の需要を掘り起こし、新たなシーンへと進出したのです。

人気を集めたD315(ノキア製)は、カバー交換ができるモデル。機能以外の面も少しずつ重視されてきたことが分かります。ちょっと時代は下りますが、97年に発売された506G(三洋電気製)は3色展開で若い女性を中心に支持されました。

この時代の携帯電話・スマホは?
左/「506G」(1997年6月/三洋電気製)。携帯電話で文字が送れるIDO初のSMS対応モデル。ビジネス仕様の「黒」から脱却した爽やかな本体カラーで人気を博した。中/「D319」(1996年11月/デンソー製)。ケータイ初「メロディ着信音作曲機能」搭載。自作のメロディを着信音に設定できた。96年のグッドデザイン賞受賞。右/「D315」(1996年7月/ノキア製)。当時ケータイにカラーバリエーションがほとんどない中、オプションで5タイプのカラーカバーが選べた
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→「506G」→「D319」→「D315」

携帯電話に着メロが初めて搭載されたのもこの時代。IDOのD319(デンソー製)は、まさにパーソナル化の象徴。プリセットの楽曲だけでなく、自分でつくったメロディを着信音にできる 「メロディ着信音作曲機能」を搭載しました。好きな「色」をまとって、好きな「曲」を鳴らすようになった携帯電話。レンタル時代とは比べものにならないほど、ユーザーにとって身近な機器になっていたのです。

実は、携帯電話に初めてマナーモードが搭載されるのもこの時代でした。それだけ多くの人が持つようになり、いつ着メロが鳴っても不思議ではないほど普及してきた、という証拠かもしれませんね。

文:T&S編集部

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